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愛憎B

「・・・田中君・・・・ごめんね。」
しばらくの間、黙っていた咲子が小さな声で詫びた。

「いえ・・・。あの、大丈夫ですか・・・?」

咲子はゆっくりと、健太郎の上着を握り締めていた手の力を抜いた・・・。

「・・・大丈夫!」
そう言ってニコッと笑う咲子。
でも、その笑顔はどこか無理をしているようで・・・余計に気にかかる。

「何かあったんですか・・・?」
「おかあさん?」
健太郎だけでなく、優子も心配そうに咲子の顔を見上げている。

「本当に何でもないの!・・・さ、お茶飲みに行こう!」

咲子はそれから、ずっと笑顔だった。

<・・・無理して笑ってる・・・・・>
・・・・健太郎はその笑顔を見ているのが辛かった。




すっかり日も落ちて、健太郎はカー助へのお土産のお寿司を手にぶら下げて帰宅した。

「ただいま・・・・。」
健太郎の声に、カー助は嬉しそうに玄関に飛んで行く。

「お帰り〜。どうだった?楽しかった・・・・か・・・・・。」
途中で言葉を詰まらせた。
・・・健太郎がこの上なく暗い顔をしていたからだ。
「どうしたんだ?」
「う・・・・ん。」
健太郎は、とりあえず、お寿司をテーブルに広げ、お茶を入れた。


「林先輩・・・途中まではとても楽しそうだったんだ。なのに・・・どうしちゃったんだろう。」
「乙女心は複雑だからなぁ。」
カー助はお寿司をパクンと口に入れた。


「まあ、そう考え込むな。・・・って言っても無理か・・・。」

健太郎は、ふぅ・・・っとため息を付いて、コロンと寝転び、天井を見つめた・・・。


好きな人が笑っているとそれだけで楽しいのに。
好きな人が自分に笑顔を向けてくれるだけで、心が踊りだすのに。

だから・・・知りたい。
気持ちを知りたい。
どうしたら元気になってもらえる?
どうしたら笑ってくれる?

貴方の気持ちを知りたい。
そして・・・。
知って欲しい、自分の気持ちを・・・。

<・・・・気持ちを・・・・伝えようかな・・・・>

好きだという気持ちを伝えてみようかな・・・・健太郎はぼんやりとそんなことを考えていた。











「奈美ちゃんの方から遊びに来るなんて珍しいね。」
奈津子は夕食の用意をしながら奈美江に微笑みかける。

政博は奈津子と結婚した時に、小さいながらも一戸建てのマイホームを手に入れている。
小さな庭は、奈津子が手入れをしている花々で可愛く飾られている。

奈美江は居間のソファーに座り、隣のキッチンで野菜を切っている
奈津子の後姿を眺めていた。


<幸せな風景・・・よね・・・>


咲子のことがあって、何となく気になって奈津子の家に来てしまった。
いつもは奈津子の所にも実家にも寄り付かず、勝手気ままな生活をしている奈美江だが
やっぱり妹のことは気にかかる。
・・・と、言っても咲子のことを知っているのは奈美江だけだ。
<気にしてもしょうがないのにね・・・>

それでも、妹夫婦の円満な様子を確認したくなってしまったのだ。





双子の姉妹。
子供の頃から奈美江と奈津子は何かと比較されていた。
活発で自立心旺盛だった奈美江に対し、大人しくて、いつもどこか頼りなげな奈津子。
奈美江は友達とよく喧嘩した。
でも・・・喧嘩した後仲直りすると、前より少し仲良しになれた気がしていた。
両親とも言い争いが絶えなかった。
「親に向かって何て口の聞き方だ!!」
・・・と、怒鳴られても、納得できないものは納得できないのだ。

一方、奈津子は喧嘩どころか、自分の思っていることをなかなか口にしない。
不満があっても、言葉を飲み込んでしまうのだ。
・・・そして、安全な場所で気持ちを吐露する。
奈津子にとって、その『安全な場所』は、奈美江だったわけで・・・・・。
親や友人に対し感じている不満を奈美江に言い続ける。


延々と奈津子の愚痴を聞いていると、奈美江は時々イライラした。
それでも、頼りない内気な妹が可愛くていつも気持ちを受け止め、守ってきた。
奈津子が政博と付き合いだしてから、一時、『安全な場所』の役は政博にバトンタッチされたが
・・・・・また戻って来た。
政博が咲子に心移りしていくのを感じ、そのことに対する奈津子の焦りも
不安な気持ちも奈美江が受け止めてきた。

林咲子。

奈津子に語らせると、その人物はすごく嫌な女性像になっていたが・・・
妹の性格を良く知っていた奈美江は、たぶん、明るいごく普通の女性なんだろうと想像していた。
実際病院で会った時と、会社で話してみた咲子は、奈美江にとって想像通りの・・・いや、
それ以上の好感の持てる女性だった。

「奈美ちゃんは良いな。言いたいこと我慢せずに言えて。私は言えないからすごく疲れる・・・。」
奈津子は子供の頃から度々こんなことを言っていた。
でも、奈美江から言わせると、「奈津子はずるい。」・・・なのだ。
言いたいことを言わずにいるのは何で?不満を言わないのは何で?
奈津子は両親からとても可愛がられて甘やかされていた。
何かと反発する奈美江より、言うことを良く聞く奈津子の方が可愛かったのだ。
両親の、奈津子と奈美江との扱いの差は明らかで、奈美江自身も子供ながらに
それを感じていた。
そして、奈津子がそのことに対し少なからず優越感を感じていることもわかっていた。

<奈津子はずるい>
・・・自分の気持ちを言わずに、代わりに手に入れている物があるにもかかわらず、
辛いのは自分だけという態度を取る、そんな奈津子に対する反感の思いが確かにあった。


相手が怖くて、言いたいことが言えない・・・嫌われたくなくて相手の反応が怖くて
自分を押し殺してしまう・・・。
その辛さは奈美江にも想像はつく。
<・・・でも、奈津子の場合はソレとは違うような気がする・・・・・>
そんな風に思う瞬間が何度かあった。



それでも、奈津子が自分を頼ってくると・・・つい守ってあげたくなってしまうのだ。

そして・・・そして奈津子自身も、いつも姉はそんな存在でいてくれる
・・・そう信じて疑わなかった・・・・・この日までは・・・・。






「奈美ちゃん。お夕食、食べていってね。」
テーブルの上には寄せ鍋の準備が整いつつある。

「うん。ご馳走になる。政博さんは?」
「今、お風呂入ってる。」
「ふーん。」
「さて、準備完了!」

後は政博がお風呂から上がるのを待つばかりになり、
奈津子は奈美江の隣に腰を下ろした。

奈津子は、何か楽しいことを思い出したように微笑んでいた。
何だか嬉しそうな奈津子の様子に、奈美江はきょとんとして顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」
「今日ね・・・・意外な人に会ったの。」
「意外な人・・・・・?」


奈津子は、微笑を浮かべ、奈美江をチラッと見た後、左手を自分の顔の前にかざした。
右手でそっと左手首に触れ・・・・・・クスっと笑う。

「もう、良く見ないと傷跡なんてわからなくなっちゃった。」
「奈津子・・・・?」

何だか・・・妹の微笑がとても残酷なものに見えて、奈美江は身じろいだ。

「本気で死ぬ気なんかなかったもの・・・。」

そう言った奈津子の言葉が、すぐに理解できず・・・奈美江は言葉に詰まる。


「お母さんがすぐ見つけてくれるってわかっていたし・・・
なるべく浅く傷付けたもの・・・傷跡なんてそのうち消えてしまう。」
「何の話をしているの・・・・・?」

不安げな奈美江の言葉を無視し、奈津子は話を続ける。
・・・まるで、今まで封じ込めていた気持ちを解き放つように、言葉を紡ぐ。

「私は追い詰められてた。・・・どんな手を使っても政博さんを取り返したかった。」
「奈津子・・・・・?」
奈美江は、徐々に妹の言っていることを理解し始め・・・表情を硬くした。

「奈美ちゃんはとても強くて、いつも私を助けてくれた。私の気持ちを代弁してくれた。
奈美ちゃんはいつも私の味方だった。・・・私も奈美ちゃんのようになりたいって憧れたけど
・・・・ダメだった。」
「・・・・奈津子・・・貴方まさか・・・・・。」
「私にはこんな方法しか思いつかなかった。」

奈津子はゆっくりと隣にいる奈美江の方へ視線を向けた。

「今日、林咲子さんに会ったの。」

「・・・・え?」

「今日ね、政博さんと映画に行ったの。その時・・・偶然ね・・・。」

「・・・ま・・・政博さんは・・・?」

「私しか気が付かなかった。」


奈津子は、左手をギュッと握り締め・・・先ほどまでとは打って変わって、
辛そうな微笑を浮かべ、俯いた・・・・。


「赤ちゃんのお洋服を見ていた私たちに、彼女は気が付いていた。
ショックを受けたように私をじっと見ていたわ。
・・・私・・・彼女と目が合って、どうしたと思う?」

「・・・・・・・・・。」
奈美江はどう答えていいのかわからず、黙って奈津子を見つめていた。

「私、彼女に向かって微笑んだの。」
「・・・ほほ・・・えんだ・・・?」

「私は・・・勝ち誇って、微笑んだの・・・。」

「奈津子・・・貴方は・・・・。」

奈美江は、奈津子に対する憤りを必死に抑えていた。


「私・・・自分でも驚いたわ。政博さんを彼女から取り返し、結婚して、今とっても幸せで・・・
彼女への嫉妬も恨みも心の底に沈められたと思っていたのに・・・・彼女の姿を見た瞬間、
昔の気持ちが全て蘇ってしまった。」

奈津子はゆっくりと顔を上げ、奈美江を見つめた。

「私は彼女に勝った。彼女に私の幸せな姿を見せつけ喜びを感じてしまったの。」

「奈津子・・・。」
奈美江は、絞り出すように言葉を口にした。




奈美江は、我慢できなかった・・・。奈津子が身重の身体だってことも
労わらなければならないことも・・・・・忘れてしまった。
もし、咲子の事情を知らなければ、聞き流せていたかもしれない。
昔・・・政博といったんは別れることを決めたのに、寂しくて、追い詰められて、生きるのが辛くて・・・
奈津子は手首を切り、その行為が結果的に政博の気持ちを繋ぎとめた。
それだって、奈美江にとっては潔くない許されないことだと感じていた。
もし、妹でなければ間違いなく咲子に味方したくなっただろう。

なのに実際は・・・奈津子は、追い詰められ、寂しさから逃れる為に手首を切ったんじゃなかった。
政博を取り戻すために手首を切ったのだ。
自分の命を盾にし、政博の気持ちを手に入れたのだ。

そのことをはっきり理解した時。
許せなかった。
政博に子供のことも言わず、身を引いた咲子のことを想うと、・・・許せなかった。


「奈津子・・・あんたって・・・・・・・最低。」

声が震える。
奈津子は、ハッとしたように奈美江を見た。

今まで、姉がこんなにも怒りを込めた目で自分を見たことなどなかったからだ。


活発で元気のいい姉。
奈美江はいつも奈津子を守ってくれた。



今日、自分が抱いた咲子へ対する憎しみと優越感の気持ち。それを感じた時、愕然とした。
愕然としながらも・・・それでも優越感に浸り、嬉しさを感じてしまっている自分がいる。
だから・・・誰か聞いて欲しかった・・・だから姉に気持ちを吐露したのだ。

こんな自分の気持ちをわかってくれることを期待した・・・・・。
・・・いや、ただ聞いて欲しかった。


奈津子は目を逸らし、俯いた。
「私だって・・・自分のこと酷い女だって思ってる!でも・・・私だって必死だったの!!
政博さんが好きだったの!彼女のこと・・・許せないと思ったの!」
「奈津子・・・貴方は卑怯よ!」
「卑怯?」
「自分の命を盾にとって無理やり林さんから政博さんを奪ったんじゃない!」

奈津子は奈美江の言葉に目を見開いた・・・・胸が痛かったのだ。

「酷いよ奈美ちゃん!だって・・・仕方がないじゃない!私にはそうするしか方法がなかった!
政博さんなしでは生きていけなかった!強くて一人でも大丈夫な奈美ちゃんにはわからないのよ!」

その、奈津子の言葉を聞いて・・・・奈美江は感情が荒立つのを感じ
抑えることなどもう出来なかった。

奈美江は、ゆっくりと立ち上がり、奈津子を見下ろした。

そして。

言ってしまった。

言ってはいけないことを、言ってしまった・・・・。


「・・・貴方のせいで・・・林さんがどんなに辛い思いをしてきたか知ってるの?」
「・・・え?」

奈美江は咲子が同じ会社にいることを誰にも言わなかった。
社内報の新人の紹介ページに、咲子の写真と名前を見つけた時、絶対に家族や政博に
言っちゃいけないと思ったのだ。
だから、何も知らない奈津子には奈美江の言葉はあまりにも突然なもので
理解の範囲を超えていた。

目を見開き、奈美江を見つめている奈津子に、残酷な言葉が贈られる。


「彼女・・・・・・政博さんとの子供を一人で育てているのよ・・・・。」



どんなに悔やんでも、一度言葉にして伝えてしまうと、もうその言葉を消すことは出来ない。
奈美江は後で思い切り後悔することになる・・・・・。

















咲子は、優子を寝かしつけ、その傍らでぼんやりと座っていた・・・・。
優子の幸せそうな寝顔を見てから、自分の右手に目をやる・・・。


健太郎に縋りついた右手。


奈津子の、自分を見下すような微笑を見た時、
悔しくて、何も見えなくなりそうだった。

あの時、健太郎がいなかったら、そんな気持ちに押し潰されていたかもしれない。

<田中君が傍にいてくれたから・・・そんな気持ちに負けずに済んだ・・・>



咲子は目を閉じ俯く・・・。


『・・・やっぱり奈津子とは幸せになんかなれない・・・・。』
咲子に助けを求めるように訴えた政博の言葉。
今でも耳に残っている・・・。

別れた後も、奈津子の知らない政博と咲子の時間があった・・・。
<彼女の幸せな笑顔なんて、壊すことなど私には簡単なことだ>
・・・あの時の自分は、そんなことを考えていたような気がする・・・。

・・・あの時の自分の笑顔は、今日の奈津子の笑顔と同じ物だっただろう・・・・。
咲子は過去の自分を振り返り苦笑いした。


<田中君・・・私がこんな女だって知ったら・・・どう思う・・・?>

・・・そのことを考えると、心の痛みと苛立ちとが湧き上がり、交じり合う。

2001.12.13 

あうううう!!暗い・・・暗いぞ・・・・(涙)次回は奈津子側の気持ちだ・・・。