数日後の日曜日。 優子は、朝から思いっ切り自己主張していた。
「やだやだやだやだやだ〜!」 部屋で大泣きしながら叫んでいる。 既に声が枯れてきているので、相当長い間粘っているようだ。
咲子は困り果てて、ため息混じりに負けを認めた・・・。
「・・・わかったわ。電話してみる・・・。」
咲子の敗北宣言を聞くと、優子の涙はいきなり止まり、大きな瞳を輝かせた。 そんな我が子に苦笑いする。
「そのかわり、お兄ちゃんが来られないって言ったら諦めるのよ?」 「うん!」
その頃、健太郎は・・・・目玉焼きを焼いていた。
「俺は黄身が半熟の目玉焼きが好きなんだ。火加減気をつけろよ!」 「わかったってば!」
傍で口やかましく指示するカー助に、健太郎はムッとしながら フライパンを動かす。
その時電話が鳴った。
「あ、電話だ。」 火を止めて電話の方へ走っていく健太郎を目で追いながら、 カー助は「余熱で目玉焼きに火が通り過ぎちゃうよ〜」と、切なそうに呟いた。
電話は咲子からだった。
「映画ですか?」 『ええ、優子がどうしても田中君と行きたいって我侭言って・・・。』 「行きます!行きたいです!」 即答だった・・・。
電話を切った後、火の通り過ぎた目玉焼きを悲しそうに見つめているカー助を抱きしめた。 「咲子さんに映画に誘われた!」
<・・・・優子ちゃんに誘われた・・・だろ?健太郎>
カー助は心の中で、親友の間違いをこっそり修正した。
待ち合わせ場所の映画館に、軽い足取りで向かった健太郎。 咲子たちは既に到着していて、チケット売り場の脇で立っていた。
「おにいちゃん!」 健太郎の姿を見つけると、優子は嬉しそうに手を振り走り出した。
優子は本日、お気に入りのピンク色のコートに身を包み、熊さんの耳が付いた毛糸の帽子を
被ってきた。おさげにした髪にはコートと同じ色のリボンが結ばれていた。
てけてけと走って行き、いつものようにパフッと健太郎に抱きついた。
「こんにちは。優子ちゃん。」 健太郎はしゃがんで、嬉しそうにニコニコしている優子にご挨拶。
映画館は小さな子供を連れた家族で混み合っていた。
はしゃいでいる優子を真ん中にして席に座った。
「ごめんね。子供向けのアニメ映画なの・・・・。」 咲子は申し訳なさそうに言った。 「いえ、俺こういうの好きだし。」 しっかりパンフレットまで買っている健太郎。本当に、ウソ偽りなく好きなのだ。
そして映画も終わり・・・。
「面白かったねー!優子ちゃん。」 「ね〜!」
健太郎と優子は満足げに顔を見合わせ、映画の余韻に浸っている。 優子と映画のことで盛り上がる健太郎の様子を見て、咲子は思わず笑ってしまった。
「どうしたんですか?」 クスクス笑う咲子に健太郎は首を傾げる。
「優子と反応がまったく同じで・・・つい・・・・。」
咲子の言葉に、ちょっとショックを受けたように目を見開き、しょんぼりと俯いた。
「?・・・田中君?」
咲子は、笑うのをやめ<どうしたの?>・・・と、いうような目で見つめる。
「すみません。俺、やっぱり子供っぽいですよね。」 苦笑いして頭をかいた。 咲子は一瞬きょとんとし・・・柔らかな微笑を浮かべた。
「でも、田中君らしくて素敵よ。」
健太郎は、言われた言葉を理解するまでに数秒かかり、その後目をまんまるくした。 「素敵・・・ですか?」
咲子はニコッと笑った。
「お兄ちゃん、素敵だよねー。優子。」 「うん。すてきー!」
<・・・何かちょっと違うような気がする・・・> 健太郎は優子に抱きつかれながら複雑な心境だった。
「さて、お昼ご飯でも食べに行きましょうか。田中君、何食べたい? 好きな物ご馳走しちゃうわよ!」 映画館を出た所で、咲子にそう言われ、健太郎は慌てて首を横に振る。
「ちゃんと自分の分は払いますよ。」 「ダーメ!無理に付き合ってもらっちゃったんだし、入院中のお礼も込めて 今日は私に奢らせて!」 「でも・・・。」 「いいから、何食べたい?」 「ゆうこ、かいてんずしがいい!」 健太郎が答える前に、優子が元気良く手を上げて答えた。
「優子じゃなくて、お兄ちゃんに聞いてるの。」 「俺も回転寿司が良いです。」
それから、ちょっと照れくさそうに言葉を付け加えた。 「お寿司がぐるぐる回ってて、楽しいから。」
映画館の近くに見つけた回転寿司屋に入った。 お昼にしては時間が遅かったため、お客の数もまばらで すんなり席に着くことが出来た。
「たまご♪」
咲子にお皿を取ってもらうと、優子が嬉しそうにお寿司を頬張った。
「カー助・・・羨ましがるだろうな・・・。」 健太郎もお寿司のお皿を取りながら、クスっと笑った。
「羨ましがる?カー助君、お寿司好きなの?」 「はい。すごく大好きで、そのお寿司が回ってるって想像するだけで トキメクんだそうです。」
咲子は、トキメイているカラスを想像し、可笑しくて思わず吹き出しそうになった。
「本当は連れて行ってあげたいんですが、まさかカラスをお店に入れるわけには
いかないですからね。」
「か・・・可哀想だけど・・・可愛くて・・・可笑しい!」 咲子は、可笑しくて可笑しくて、その後しばらく笑いが止まらなかった。
<カー助今頃くしゃみしてるだろうな・・・>
健太郎は、咲子があんまりにも楽しそうに笑うので、その笑顔の素となった
カー助の顔を思い浮かべ、感謝した。
カー助へのお土産はお寿司に決定した。
「・・・田中君。近いうちにカー助君に会わせてもらえる?」 ようやく笑いがおさまった咲子が健太郎にお願いした。
「カー助君にもお礼がしたいの。優子の友達だし、ご挨拶もしないとね。」と言って微笑んだ。
お腹もいっぱいになり、店を出た後、目的もなく散歩するように街を歩いていた。
まだ時間も早く、健太郎は当然咲子ともっと一緒にいたかったし 優子も健太郎の手を握って離さなかったので、何となくそうなったのだ。
しばらく歩き回ってから・・・健太郎は懐かしい風景に出会う。
・・・以前、人間界に遊びに来た時に歩いた街並み・・・・。
<ここ・・・もしかして・・・> 健太郎は周りを見渡すように視線を移していく・・・。
「どうしたの?田中君。」 健太郎の様子に気が付き、咲子はきょとんとした。
「・・・いえ、あの、この近くにあるデパートへ行ってもいいですか?」 「何か買い物?」 「いえ、そういうんじゃないんですが、ちょっと懐かしくて。」
健太郎はそう言ってニコッと笑った。
記憶を辿り、思い出の場所にたどり着く・・・・・・咲子を初めて見た場所。 咲子を好きになった大切な場所だ。
デパートの前は、ここを待ち合わせ場所にしている人で賑わっていた。
健太郎は人間界に来て間もない頃、一度だけここに来たことがある。
咲子の笑顔に出会った場所だ・・・。
今、その人と一緒にその場所に立っている・・・。 ちょっと嬉しくて、隣にいた咲子に視線を移した。
・・・でも、咲子は固い表情で目の前の風景を見つめていた。
「林先輩・・・・?」
咲子はビクッとして健太郎の方へ顔を向けた。
「どうしたんですか?」 「あ、何でもないの。」
誤魔化すように笑っている咲子は、健太郎の目には 何故だかとても辛そうに見えた・・・・・。
「ねぇ、何だか歩き疲れちゃった!その辺でお茶でも飲もう!」 咲子はまるで、その場所から逃げるように歩き出した。
<・・・林先輩・・・?> 健太郎は戸惑いながらも優子を抱き上げ、慌てて咲子の後を追った。
咲子は、逃げていた。 ・・・もっとも嫌な自分から逃げていた。 それを嫌でも思い出させる場所から逃げていた・・・・・。
早足で人ごみをすり抜け、気持ちを落ち着かせようと立ち止まった時 ふいに・・・耳に入ってきた声。
「ねえ、女の子とは限らないんだから。」 「じゃあ、男の子と女の子どっちでもいいように両方買おうよ。」 「まだ生まれてもいないのに、幼児用のお洋服は早すぎのような気がするけど。」
その・・・聞き覚えのある声に、自分の心音が耳に響き渡る。
ゆっくりと振り返り、声の方へ視線を向けた・・・・・・。
子供服を扱っているお店の前で、楽しそうに話す男女の姿が咲子の目に映る。
咲子は目を見開いた。
<・・・何で・・・?>
何でこんな場面を目の当たりにしなきゃいけないのか。 何でこんな気持ちの時にこんなに幸せそうな2人を見なければならないのか・・・・・・・・。
男女のうち、女性がちょっと視線を動かした時・・・咲子と目が合った。
咲子はその場から動けなかった。
まるで身体が凍り付いてしまったようで、視線すらも動かせずにいた。
そんな咲子を見た女性は、一瞬驚いたように目を見開き・・・その後・・・。
その後、冷たい微笑みを咲子に向けた。
「ねぇ、政博さん。どうせなら赤ちゃんのお洋服見に行きましょう。」
「そうだな。あ、でも、もうすぐ映画の上映時間だぞ。」 「次の時間帯のにすればいいわよ。」
政博の腕に自分の手を絡ませ、歩き出す奈津子。 政博に咲子の存在を気が付かせないように、咲子のいる場所とは逆の方へ歩き出す。
やがて、人の波へ飲み込まれ・・・2人の姿は見えなくなった。
咲子はそれでも、まるで2人のことを追うような眼差しで、その風景を見つめていた・・・。
「林先輩。」
人ごみをかきわけ、ようやく咲子に追いついた健太郎がホッとしたように声をかけた。
「良かったー。はぐれたかと思いました。」
健太郎の声が、耳に入っているのかいないのか・・・咲子は何も言わずに 視線だけ向けた。
抱上げていた優子を降ろし、健太郎は首を傾げた。
「・・・・先輩?・・・・どうしたんですか?」
咲子の瞳に、心配そうな顔で自分を見つめる健太郎が映る。
真っ直ぐに自分を見つめる健太郎の瞳。
・・・・・・・咲子は縋るように右手を伸ばし、健太郎の腕の辺りの上着を握り締めた。 まるで、何かを繋ぎとめるかのようにギュッと握り締めた。
「・・・先輩・・・・・?」
<・・・・お願い・・・しばらくこのままでいさせて・・・> 咲子は心の中で懇願し、目を閉じて俯いた・・・・。
今、この手を離したら・・・心の中全てを、自分の醜い感情に支配されてしまいそうで怖かった・・・・。
黙ったまま俯く咲子に、健太郎はどうしていいかわからず、傍にいることしか出来なかった・・・。
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