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過去C

咲子の想いは政博に届き、咲子と政博の幸せな幸せな時間が過ぎていった。
・・・・でも、それは長くは続かなかった・・・・・・。



「奈津子の様子が変なんだ・・・。」
政博が暗い声でポツリと言った・・・。

季節は、暖かな春を迎えていた。
その頃から政博の口から奈津子のことを心配する言葉が出るようになった。

いくら別れたとはいえ、会社は一緒なのだ。
顔を合わせる時はある。



「様子が変って・・・どういう風に?」
咲子は不安そうに尋ねた。

「・・・どんどん痩せてきているし・・・会社も休みがちなんだ。」
「・・・そう・・・。」
咲子は複雑な心境でその話を聞いていた。
奈津子への罪悪感は確かにある。
結果的に恋人である政博を奪ってしまったのだ。
でも、それはそれとして・・・また別の気持ちも湧いてくる。

<私に奈津子さんの話をして・・・どう答えろっていうの?>
政博に対して、少しだけ責めたい気持ちにもなっていた・・・。


政博からは、奈津子とはきちんと別れたって聞いていた。
彼女も納得してくれたと言っていた。


<それなのに・・・・>
咲子の心に不安がよぎる・・・。



それでも政博と一緒にいる時は幸せだった。
政博の優しい態度は、咲子を包み込んでくれていた・・・。

6月に誕生日を迎え咲子は20歳になり、更に時が過ぎて
付き合いだして半年が経とうとした頃、政博の方から
「ご両親に合わせてもらえないかな・・・。」・・・と言われた。

政博が連れてきてくれたいつもよりちょっと贅沢なレストランでの会話・・・。


店内は薄暗く、静かで落ち着いた雰囲気で、テーブルの上のランプの灯りが時折揺らめく・・・。



咲子は政博のことは両親には話したことがなかった。
以前ほどではないものの、相変わらず口うるさい両親だった。
だから社会人になったらきちんと紹介するつもりだった。

「あの・・・大学を卒業したら・・・僕と結婚して欲しいんだ・・・・。」
政博は少し不安そうにその言葉を口にした。
・・・・・プロポーズの言葉だ。

咲子が驚いて黙っていると、政博は慌てて言葉を付け足した。
「もちろん・・・もっと後でもいいんだ。その・・・だから・・・つまり、結婚を前提としててくれれば・・・。」
「結婚・・・。」
「あ、まだ、そんなに深刻に考えなくてもいいんだ。・・・ただ、僕の気持ちを知っておいて
もらいたかっただけで・・・。」
だんだん消極的になっていく政博の様子に・・・咲子はクスっと笑ってしまった。
笑い出したらとまらなくなってしまった。

頬を赤らめ、ひたすら照れていた政博が、笑い続ける咲子をきょとんとした顔で見つめた。
「咲子?」
「ご・・・ごめんなさい〜。」
「あの・・・。」
「何だか・・・何だかとっても・・・・・。」

咲子の視界に政博の姿が滲んで見えた・・・・。

「何だかとっても幸せで・・・・幸せすぎて・・・笑っちゃったの・・・・。」
瞳に涙を浮かべ微笑んだ。











健太郎と関口は黙って咲子の声に耳を傾けていた。

時折咲子の表情が、昔を懐かしむように微笑む。
その柔らかな微笑を見ていると、健太郎の心がチクンと痛んだ。

「本当に幸せだった。結婚できると信じて疑いもしなかったわ・・・。」

咲子はぎこちなく笑った。

「でも・・・出来なかった・・・。」
「何で?何でですか!!」
健太郎は思わず大きな声を出してしまった。
「田中、声、でかい・・・。」
関口の言葉に健太郎は慌てて手で口を塞いだ。
他のお客さんの視線が一瞬健太郎たちの席に集まったのだ。
「・・・ごめんなさい・・・・。」
健太郎は小さな声で詫びて、シュンとして俯いた・・・・。


咲子はクスっと笑った後、小さく息を吐き・・・・・自分の左手首を見つめた。




「奈津子さん・・・・手首を切ったの・・・・・。」


健太郎と関口は目を大きく見開いた。




暑い夏の夜だった。
政博と咲子は一緒に映画を見た後、レストランで食事をしていた。
その時、政博の携帯電話が鳴った・・・・。


奈津子の父親からだった。
「娘が手首を切った!娘は貴方のことを呼んでいる!
すぐに会いたいと言っている!今すぐに来てくれ!」

政博は電話を切って・・・真っ青な顔でその内容を咲子に告げた。




急いで奈津子の運ばれた病院へ向かった。

「君は来なくていい!」
政博はそう言ったが咲子にだって関係のある話なのだ。
「私も行く!」
咲子は政博に無理やりついて行った・・・。


<手首を切った・・・・・>
咲子の頭に、この言葉が響き渡る。

自殺をしようとした奈津子。

<私のせいだ・・・。私が彼女を追い詰めたんだ・・・・>
咲子は足が震え、逃げ出したくなる気持ちを必死で抑えていた。


病室にはベッドで眠る奈津子と、奈津子の両親、そして奈津子にそっくりな女性がいた。


病室に足を踏み入れた政博と咲子を、
奈津子の両親は敵意を込めた、責めるような目で見つめた。


「あの・・・奈津子さんの容態は・・・・。」
政博は震える声で尋ねた・・・。


父親は何も言わずに政博に近づき、いきなり殴りつけた。

「母親が早くに気が付いたから良かったものの・・・・。お前のせいで娘は・・・娘は・・・・。」
言葉を詰まらせ政博のことを責め続ける父親。
政博は、何も言うことが出来ず・・・崩れ落ちるように床に膝をついた・・・・。


「政博さんを責めないで・・・・。」

それまで眠っていた奈津子が目を覚まし、小さな声で父親を制止した。

「政博さんは悪くない・・・。私が弱かったの・・・。」
奈津子は身体を起こし、必死で訴えた。
痩せて細くなった左手首に、白い包帯を巻いた奈津子の姿が咲子の目に映り
・・・胸の痛みを感じた・・・・。

「私が悪いの・・・。だから政博さんを責めないで・・・・。」
「奈津子・・・・。」
政博はふらふらと立ち上がり・・・奈津子の元へと歩いて行った・・・。


奈津子は必死に笑顔を作り、政博を見つめた。
「ごめんなさい・・・・。私・・・・・私やっぱり・・・政博さんがいないと・・・ダメ・・・。
一生懸命幸せを願って・・・頑張ったけど、ダメなの・・・・。ごめん・・・なさ・・・。」
涙を堪え、声を詰まらせる奈津子。

「ごめんなさい・・・・。」
奈津子の瞳からぽろぽろと涙が落ちた・・・。

政博は一瞬咲子の方へ視線を向けて、咲子と目が合うと・・・・辛そうに視線を逸らした。


そして、ゆっくりと手を伸ばし、奈津子のことを抱きしめた。

「ごめん・・・・ごめんね・・・奈津子・・・・。」
政博は何度も何度も謝り続け・・・抱きしめ続けた。





咲子はただ黙ってそんな2人を見つめていた・・・・・。


そして、今自分はこの場にいるべきじゃない。
いちゃいけないと思い・・・・・・・何とか言葉を探し出し、口にした・・・。

「申し訳ありませんでした・・・。」
声が震える・・・。

なぜ自分が謝らなければならないのか。
なぜこんなことになってしまったのかわからないまま・・・。
・・・この言葉しか見つけ出せなかった・・・。

奈津子の両親は咲子を責めるような目で見つめていた。
今でもその目を覚えている。


咲子は逃げるように、足早に病院を後にした・・・・。




それから1週間、政博からは何の連絡もなかった。
咲子の方から連絡を入れても、いつも留守でつかまらない。
携帯電話も電源が切られていた。

不安で不安で心が押し潰されそうだった。

そして・・それから更に1週間が経ち、政博から咲子の元へ電話があり、別れを告げられた。


「ごめん・・・。奈津子には僕が必要なんだ・・・・。」
奈津子とずっと一緒にいる・・・。彼女と結婚するよ・・・・そう言った
政博の声が咲子の頭に響く。

電話の向こうで謝り続ける政博の言葉を聞きながら・・・咲子は心の中で泣いていた。

政博の声は心底疲れきったものだった。


政博はあれから時間が許す限り、ずっと奈津子に付き添っていたのだ。
その間に・・・奈津子との間で何があったのかはわからない。
わからないのに・・・政博は奈津子の方を選ぼうとしていた。


<何でよ・・・何でそうなっちゃうわけ?>
咲子は何度も心の中で叫んだ。


電話だけでサヨナラなんて納得できず、無理やり会う約束を取り付け、直に話そうと思った。


<来てくれるだろうか・・・・>
待ち合わせの喫茶店で、咲子は心の中で祈りながら待っていた。


そして・・・約束の時間に現れた政博の姿に愕然とする。
酷くやつれていた。

奈津子のことで思い悩み、自分を責め続けた政博。



そんな政博の姿を見たら、咲子はもう何も言えなくなってしまった・・・・。


<奈津子さんのことを追い詰めたのは私だ・・・>
他の誰でもない、私なんだ・・・そんな想いが心を締め付ける。



咲子は、これ以上自分と奈津子の間で政博を苦しませたくはなかった・・・・。



それに・・・・結局政博が選んだのは咲子ではなく、奈津子だと・・・そう思った。
どんな理由があっても最終的に奈津子のことを選んだのだ・・・。






「だから別れたの・・・・。」
咲子はニコッと笑った。
今にも崩れてしまいそうな笑顔だった。

関口は腕を組んで黙ったまま何かを考え込んでいた。
一方、健太郎は何もかも心の中で整理できず、混乱した自分の感情に戸惑っていた。
そんな健太郎に更に追い討ちをかけるように咲子の話しは続いた。



「お腹の中に優子がいるってわかったのは、別れた直後だった。」

咲子は苦笑いして、肩をすくめた。
「そのことを知った時、産むことしか考えなかったけど正直言って大変だった。
野島さんには言えるわけないし親には縁切られるし・・・味方は姉だけだった。」

咲子は、優子の父親のことは姉の敏子にしか話さなかった。
もし咲子の両親に政博の存在を知られでもしたら、
どんな手段に出たかわからなかったから、問い詰められても決して言わなかった。

一人で産んで一人で育てようと決意し、一人暮らしを始めた。
貯めていたお金と姉の援助で何とか生活し、短大も無事卒業することが出来た。
そして・・・優子が生まれた。

子育ては敏子の力も借りて、しばらくはアルバイトをして生活していたが、
22歳になる年の4月に、新卒に混じってKサービスに入社した。
給料も待遇も咲子にとってありがたいほど充実していたし、これ以上良い会社は
他にはなかった・・・。
<これで優子と2人で生きていける・・・>
それに、既に結婚し専業主婦になっていた敏子という心強い味方もいたし、
ホッとしていた咲子だった・・・。
だが、入社式の後にもらった1冊の社内報を見て・・・愕然とした。

社員が思い思いの記事を載せるコーナーに、奈美江の写真を見つけたからだ。
一瞬、奈津子かと思い血の気が引く思いだったが、記事の隅に
載せられていた名前は『浅井奈美江』なっていた。
記事には双子の妹と旅行に行ったことが書かれていた・・・・。
病室にいた奈津子そっくりの女性がいたことを思い出す・・・。


「まさか奈津子さんのお姉さんがこの会社にいるとは思わなかった。」
咲子は苦笑いした。

「その後のことは知っての通り。優子のことを彼女に知られないために人事部長に頼んで
秘密にしてもらったの・・・・。本当は、すぐにでも別の会社に転職すべきだったのかもしれないわね。
・・・でもここ程良い会社、そうそうないしね・・・・。」

咲子の言葉が辛くて・・・健太郎は俯いた。
「・・・何でそんなに林先輩が辛い思いをしなきゃいけないんですか・・・。」
問いかけと言うより、独り言のような呟きだった・・・。
何も考えずに、言葉が口に出てしまった・・・。


「もう誰も傷つけたくなかったの。」
咲子の静かな声。

健太郎は顔を上げて、咲子を見つめた・・・瞳に映る咲子は微笑んでいた。

「浅井さんの家族も奈津子さんも、野島さんも、もう誰も傷つけたくないと思ったの。」

今でも彼のことを想っている・・・。
咲子の姿からそんな言葉が聞こえてくるように思えた。
健太郎は胸の痛みを感じた・・・・。


「・・・・・野島さんのこと・・・今でも好きなんですか・・・・?」

健太郎の言葉に「もう過去のことよ。」・・・と言って咲子はニコっと笑った。


そして・・・ゆっくりと目を閉じて静かに言った・・・・。



「でも・・・彼の幸せを願ってる・・・・。」



















店を出ると、日は落ちかけ、辺りは薄暗くなり始めていた。

「私、タクシーで帰るわ。遅くなっちゃったから急いで帰らないとね。」
「・・・一人で大丈夫?」
関口が微笑みながら咲子に言った。
「平気。ありがとう。2人に話しを聞いてもらったから・・・気持ちも落ち着いた・・・。」
「そっか・・・。」
「じゃあね。」
咲子は手を軽く振って、大通りに向かって歩き出した。



「・・・さて、田中健太郎君。」
咲子の姿が人ごみに消えた後、
店の前で何も言えず立ち尽くしている健太郎に関口は微笑み、声をかけた。

「・・・どうする?・・・帰る?それとも、飲んでく?」

関口の声は、咲子の時と同様・・・・とても優しいものだった。

健太郎は顔を上げて関口の顔を見つめた。

「なーに泣きそうな顔してんだよお前・・・。」
関口はちょっと呆れたように苦笑いし、健太郎の髪をクシャっと手でかき回した。



「・・・飲みに、行きたいです・・・。」
健太郎は関口の言葉がありがたかった。
自分の中に湧き上がる気持ちをどうすればいいのかわからず
関口ならその全てに答えてくれそうな気がした。
誰かに縋りたかった・・・・。


「よーし!今日はお兄さんがとことん付き合ってやっからな。」
「・・・・・ありがとうございます。」
「酔いつぶれたって良いぞ。あの生意気なカラスには俺が連絡してやっから。」
「・・・はい・・・・。」
「よし!じゃあ、店探して飲みなおしだ!」

関口は元気に歩き出し、健太郎はその後をボーっとしながらついて行った・・・。

<・・・俺、こんなに面倒見良かったっけかなぁ・・・>

関口は後ろを振り返って、しょんぼりしながら付いてくる健太郎を見て苦笑いする。
咲子の話しは関口にとっても重く辛いものだった。

<魔法の国でほのぼの育ってきた田中に、今回の話はキツイだろ・・・>
そう思うとほっとけなかった。
そんな風に自然に思える自分が可笑しくもあり、気に入ってもいた。

<恋敵のはずなのになぁ・・・>
関口はクスっと笑った。














『でも・・・彼の幸せを願ってる・・・・。』

タクシーの窓から、流れてゆく夜の街並みを見つめ・・・・
咲子は自分の言った言葉を思い出し苦笑いした。

「・・・私・・・嘘つきね・・・・。」
小さな声で呟いた・・・。

「はい?お客さん、何か言った?」
タクシーの運転手が咲子に声をかけたが、返事はなかった。



ポツン・・と咲子の瞳から涙が零れ落ちる・・・。

膝の上に置いた咲子の手に、次々と涙が零れ落ちてゆく・・・。

『ねぇ・・・田中君は・・・好きな人の幸せを心底願うことが出来る?』
以前、咲子が健太郎に言った言葉が心の中に浮かぶ。

『・・・その人が自分の傍にいてくれなかったとしても・・・純粋に幸せだけを願うことが出来る?』
『・・・願うこと・・・出来ます。』
自分を真っ直ぐ見つめ答えた健太郎の言葉・・・。



『寂しくて悲しいけれど、その人が幸せになれるなら・・・。』





<田中君・・・貴方のように、心からそう願えれば良かったのにね・・・・>

<でも、私は貴方のようにはなれなかった・・・・・>
咲子は声を殺し、泣き続けた・・・・。

2001.12.3 

さて、次回は関口の悩み相談室!・・・健太郎には、苦しんでもらいましょうか・・・(汗)