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香川夏子の場合


「・・・何が子供の自分を楽しみながら・・・よ!!」
香川夏子。37歳。身長158cm、髪はショートカット。最近運動不足のせいか肥りぎみ。童顔のため
実際の歳よりかなり若く見られることが多い。勤続17年。12年前に結婚し、現在の家族構成は夫と
10歳になる娘、真幸と・・・私の3人!共働き!・・・・・の私は無性に腹が立っていた。
何なのよ!さっきの館内放送の男!この状況をのん気に楽しめって言うの?
・・・もっとも今の私は何を聞いても腹が立つのかもしれない・・・。
自分の小さくなった手を見つめながらため息をついた。
「今日に限って何でこんな目に合わされなきゃならないの・・・?」
子供になってしまった自分の身体に不釣合いの椅子に座り、デスクにつっぷしながら嘆いた。
「今日は早く帰ってご馳走を作らなきゃいけないのに・・・」

私はこの株式会社ミナモトサービスに一般事務として入社以来、誰にも負けないくらい頑張って仕事をしてきた。
結婚してからは家事も旦那には不自由させないように必死になってこなした。
子供にもできるだけ寂しい思いをさせないようにと努力してきたつもりだ。
それでも限界はある。最近忙しくて料理が作れず、出来合いの物が続いていた。
だから今日こそ早く帰ってご馳走を作ろうと思っていたのに・・・。

そう・・・今日は娘の・・・真幸の誕生日なのだ。10歳の誕生日。

私は仕事が好きだった。だから結婚した時も子供が出来た時も会社を辞めるだなんて
これっぽっちも考えなかった。
でも仕事と家庭の両立はとても大変なことだった・・・。
私の所属している部署は幸いなことに比較的早く帰れる部署だ。それでも忙しい時期はある。
私は出来るだけ定時で帰れるように一分、一秒でも気を抜かず仕事をしている。
同僚や後輩の女子社員達がお菓子を食べながら給湯室で噂話している時も私は必死に仕事をしている。
だからみんなより早く上がれる日が多い。
なのに、馴れ合い残業が習慣化している私の部署の女達は
「香川さんだけ仕事が少ない」だの、「協調性がない」だの、影で言っているようだ。
言うんだったら正々堂々本人に向かって言いなさいよね!いつでも受けて立つわよ!
毎日ストレス貯まってても家族の前では仕事の愚痴なんか言ったこと・・・ないのよ・・・。
家に帰ると山のような家事が待っている。夫は手伝おうとしてくれたことはあったけれど
私は断った。気持ちが落ち着かないのだ・・・。
それにもし夫に手伝わせて義母に「ウチの嫁は・・・」なんてこと言われでもしたら・・・
考えただけでも胃が痛くなる。


でも、共働きなんだから家事だって分担したっていいはずだ。私だって夫と同じように働いている。
当然のことなんだ・・・とも思う。・・・頭でわかっていてもどうしても気になってしまう。

周りの人の評価。

ばかばかしい・・・とも思う。考え過ぎ・・・だとも思う。でも考えてしまう・・・。

徐々に心に余裕がなくなっていき、今では「仕事が好き」・・・と、とても思えない自分がいる。
贅沢は出来ないけれど夫のお給料で充分生活は出来る。夫も娘もきっと私が家にいた方が
嬉しいんじゃないかと思う時もある・・・。特に娘は・・・寂しい思いもたくさんさせてきたと思うから・・・。
じゃあ何故辞めないのか?もちろんお金が欲しいってこともあるけれど・・・。
意地・・・?プライド・・・?・・・わからない・・・。

きっと私、疲れてるんだわ・・・・その上こんな事態になっちゃってるからこんなこと
考えてしまうのよ・・・・。
そう思った時後ろから声をかけられた。

振り向くと、若い・・・見ようによっては10代に見えなくもない男がコンビニのおにぎりを
持って立っていた。

「あの・・・これ、お昼」
手に持っていたおにぎりを2つ手渡してくれた。若い男性社員。この人何で子供になっていないの?
それにこの声、・・・さっき館内放送で話をした男だ!
私はムッとしながらおにぎりを受け取った。男が転がしてきた台車の上のダンボールの中には
おにぎりがたくさん入っていた。そうか・・・もうお昼になっちゃったんだ・・・・。
男が去っていこうとしたので声をかけた。

「さっきの放送・・・何なの?」
男は振り向いて困ったように頭をかいた。
「・・・思いついたままを言ったんですが・・・」
「気楽よね・・・。そうよね、貴方は困っていないものね・・・」
もちろん嫌味だ。男は苦笑いした。
「・・・そうかもしれませんね・・・。だから少しでも役に立てればと思ってこうやって
食事を配っています・・・。皆さん食料を買いに外に出ることも出来ませんしね・・・」

「・・・この状況を楽しめると思っているの?」
私はその男を半分睨みながら聞いた。
男は答えず、代わりに・・・どこかホッとするような、優しい笑顔を私に返した。
そして男はお昼配りを続けるために去って行った。

男の笑顔を見た瞬間何故だか肩の力が抜けた・・・気がした・・・。

何の進展もないまま時間だけが過ぎてゆく・・・。私は更衣室に行き、壁に設置してある
全身を映せる鏡の中にいる自分を眺めた。
「・・・真幸とそっくり・・・」
娘にあまりにも似ているので少し笑ってしまった。制服のブラウスもベストも大きくて肩からずり落ちそう。
どちらかというとミニのタイトスカートも今はひざ下20センチってとこかしら・・・。

子供の頃・・・今よりたくさん時間があったように思う。同じ1日、24時間でも、もっとたくさんの
ことが出来たように思う・・・。時間は無限にあるような感覚たった・・・。

いつから追い立てられるような生活になってしまったのだろう・・・。
腕時計を見る。もうすぐ終業時間だ・・・。
私は鏡に映る自分を見つめ・・・決心した・・・。

更衣室を出て、フロア内の隅にある小会議室に入った。良かった・・・誰もいない・・・。
小会議室には電話が1台置いてある。誰にも邪魔されたくないし、聞かれたくない。
私はそっと受話器を手に取り、一つ一つゆっくり番号を押した・・・。

指が震える・・・。

夫の会社の電話番号。2回呼び出し音がなり、電話の向こうから女性の声がした。
「いつもお世話になっております。山成商事でございます」
夫の会社名・・・。
「香川・・・香川進をお願いします・・・。家族のものです・・・。」
私の声は震えてしまっている・・・。
「はい。少々お持ちください」
しばらく保留中の音楽を聞いていると、ふいに音楽が切れ電話口から夫の声が聞こえてきた。
「どうした〜?真幸?会社なんかに電話してきて・・・」
どうやらさっきの女性は私を娘と間違えたようだ・・・そうよね・・・今の私の声、子供だもの・・・。
「・・・あなた・・・?私は・・・夏子です・・・」
夫はしばらく無言になり、「・・・はぁ〜?」・・・と間の抜けた声を出した。
「夏子って・・・真幸だろ〜?」
娘のイタズラだと疑い始めている夫・・・私は一気に言葉をまくしたてた。
「夏子です!お願い!だまって私の話を聞いて!!」
私はとにかく頭に浮かんだこと、みんな受話器の向こう側にいる夫に向かって
言葉して投げつけた。今日のこの異常事態のこと・・・娘の誕生日のこと、
自分で今まで押し殺してきた気持ち、私は言葉を止められなくなっていた。
仕事のこと、家事のこと・・・私の気持ちを全てさらけ出していた。
後から後から気持ちが溢れてきて・・・私は受話器を握り締め・・・泣いていた。

夫は何も言わず聞いてくれた・・・。そして私が少し落ち着いた時
静かに言った・・・。

「・・・うん。間違いなく、夏子だ。声は子供でも・・・君は夏子だ」


「・・・信じてくれるの?」
私は恐る恐る聞いた・・・。

「あったりまえだろう?何年お前と夫婦やってると思ってるんだ?
お前は誰がなんと言おうと夏子だ。俺が保証する。」
夫は笑いながら明るく、そう答えた・・・。

だからこそ言えた・・・ずっと言えなかった言葉・・・。

「あなた・・・お願い・・・私を・・・・・・助けて・・・」
大粒の涙が私の目から落ちる・・・。




「・・・大丈夫!安心しろ。仮にお前が子供のままで大人に戻れなくても夏子は夏子だ!
安心して家に帰って来い!俺と真幸がついてるんだから、何も恐がることないじゃないか!
まあ、真幸は少しビックリするとは思うが大丈夫!あいつは俺に似て楽天家だ!」
夫は・・・私を元気付けるためか・・・わざと冗談めかして言った・・・。そしてフッ・・・と
小さなため息をついた後、・・・優しい・・穏やかな声で言ってくれた言葉・・・私は一生忘れない。



「・・・俺・・・ずっと待っていたんだ・・・君が俺を頼ってくれるのを・・・」
少し照れた・・・でも嬉しそうに笑う夫の顔が浮かぶ・・・。


俺は君のそばにいつもいる・・・思い出して欲しかった・・・。

夫の言葉。温かい・・・。

私は静かに受話器を置いた。

終業ベルが鳴ったらすぐに家に帰ろう・・・。このままの姿でもいい。とにかく家に帰ろう。

そして娘の誕生会を家族で盛大にやろう。手作り料理でなくてもいいや。特上のお寿司でも出前でとって、
・・・とにかく今夜は出来るだけたくさんの話がしたいから・・・。夫と娘と3人で・・・。

きっと今日のこのヘンテコな事件は私に贈られた大切な時間なんだ・・・。そう思うことにしよう。

心がほかほか温かくなっていくのを感じた・・・。

そして・・・終業ベルが鳴った・・・。

2001.3.21

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