らすとばとるI
| 「…っ!」 俺が抵抗を始めると、市田社長はいきなりネクタイを掴んでいた手を放した。 その拍子に、彼女から逃れようとして手に力を入れていた俺は、今度は後ろへとヨロケて尻餅をつく。 市田社長はというと、満足そうに笑っている。 あまりなことで、ただ呆然と市田社長のことを見ていた。 今の俺、とても間抜けな顔しているだろう…。 「誕生日プレゼント、いただいたわ。」 「プ…プレゼント…?」 ってことは、今のキスはプレゼントとして回収されたものなのか? プレゼントって無理に回収するもんか? と、言うよりいきなりキスするか?? 普通はしねーだろ!! 一気に酔いも醒めたぜ。 「怒った?」 市田社長が左手で頬杖をつき、してやったりって顔してる。 彼女の言葉通り、ちと俺は怒っている…それが目つきにでも出てるんだろう。 「まあ、そう怒らないでよ。」 市田社長は肩を竦め、少しだけ反省してるってポーズをとる。 「仕方ないじゃない。我慢できなかったんだもの。」 「我慢?」 「あなたがあんまり切ない顔してるから、ついね。」 悪びれる様子もなく言う。 「…もうこんなことなしですよ。」 「それは無理かも。」 無理かもって…。平然と言ってのける市田社長。呆れて開いた口が塞がらない。 と、市田社長が膝をついたまま俺の方へとにじり寄ってくる。 …この人、目が据わってるぞ? 社長の迫力に押され、俺も尻餅をついた状態のまま後退る。 でも、すぐに背後の壁に背中が当たり、退路が絶たれたことを知る。 「ねえ、椎名君。いったいどんなコに恋してるの?」 市田社長が俺の顔を覗き込む。 ダメだ。これ以上付き合えない。 「言いたくありませんし、言う必要もないと思います。」 俺は素早く立ち上がり、帰り支度を始める。 「食事はまだ終わってないわよ。」 市田社長もすっくと立ち、俺を呼び止めた。 「これ以上あなたと食事を続けたくないんです。申し訳ありませんが先に帰らせていただきます。」 嘘偽りない正直な理由だ。 「それと、余計なお節介だとは思いますが、あなたはもっと相手の立場を考えて行動した方がいいと思いますよ。では、失礼します。」 ペコリと頭を下げて有無を言わさず部屋を出て行った。 長い廊下を歩きながら、ショックを隠し切れずにいた。 市田社長、確かに強烈にクセのある人だけど、話してみると結構好感を持てたのに…。 それを裏切られた気分だった。 結局、噂通りの権力を振りかざす節操のない男好きの我侭女ってことだよな。 気に入ったってだけの男に、キスでも何でも出来るんだろう。 しかも相手の意思は完全無視。 冗談じゃないっての! 俺は好きな奴としかしてこなかったし、したくない。 営業マンとしては最悪な対応だったのかもしれないけど、やっぱ俺には堪えきれない。 「68,250円になります。」 にこやかに金額を言う女将。 レジに行き、精算を済ませようとして驚いた。 約7万円…。さすが高級料亭。 6月に出たボーナスの金額だ。ありがたいことに新入社員にも少しだけボーナスが出た。 それが7万円。 家賃を払うためおろしてきてたから、ぎりぎり足りた。ちくしょう〜。いきなり貧乏だ。 店を出て、夜道を歩きながら明日起こるであろう騒動を想像する。 多分、完全に市田社長を怒らせたな。確実に会社に苦情の電話も入るだろ。 俺、クビかな…。園田課長がほくそ笑む顔が浮かぶ。 腹立つけど、自分の中にある譲れないもんは守りたいもんな。 この時点で…俺はまだ市田社長の気持ちを誤解していた。 俺のことをからかって楽しんでいるだけなのだと思ってたわけだが…。 部屋に取り残された市田社長は、手酌で日本酒を飲みながら一人で反省会をやっていた。 「失敗しちゃったなぁ。ついいつものノリでキスしちゃった…。遊びだと思われたのかしら。」 ちょっとため息交じりの独り言。 「やっぱりああいう子には先にきちんと告白して迫った方がよかったみたいね。」と呟き、続けて恐ろしいことを言う。 「まあ、反省事項は多いけど、押し倒さなかっただけよく我慢したと思うわ。」 市田社長は手元のお猪口に目を落とし、頬を赤らめ目を潤ませる。 「椎名君。私はあなたのこと、本気なのよ…。何せ、あなたは私の特別なんだから。」 そんなこと、俺が知る由もなく…。 俺はとっとと家に帰り、出迎えてくれない愛猫、姫に餌をやる。 「なあ、姫。俺が無職になったらどうする?一人と一匹で路頭に迷うぞ。」 俺の呟きになど耳を貸さず、姫はただひたすらキャットフードをパクついていた。 薄情な猫だなぁ。 次の日。 かなりの覚悟で出社した俺を出迎えたのは…市田社長。 真っ赤な薔薇の花束を抱え、玄関ホールの中央で立っていた。 「椎名君。おはよう!待ってたわよ〜♪」 爽やかな笑顔で朝の挨拶されるが、俺はと言うと、驚きのあまりすぐに反応できないでいた。 「な…何で?」 「何でって、昨晩のお礼とこれからもよろしくねって挨拶に来たのよ。」 バサッと俺の腕の中に花束を押し付ける。 「昨晩は楽しかったわぁ。」 市田社長の声が玄関ホールにこだまする。 まるで夢見る乙女って感じのフワフワした声音がこの空間を支配する。 周りのみんなも足を止め、俺と市田社長に注目する。 「最高の夜を過ごさせて頂いた…。もう、私、椎名君の虜になりそうよ。」 市田社長はうっとりとした顔で言ってるが…。 さ、最高の夜? 虜? なんじゃそりゃ!! 「それに、あなたって見かけによらず男らしくて、この私が翻弄されっぱなし。」 男らしい?翻弄って…。 いったい何処のどなたの話をしてらっしゃるのですか? 「これからもよろしくね!あなたなら安心して仕事も任せられるわ。」 『仕事も』の『も』の字をやけに強調する。 「じゃ、私、社長にも挨拶してくるから。あ、今日のランチ、昨晩のお礼に私がご馳走するわね。12時にここで待ち合わせ♪」 市田社長はウインクして、エレベーターホールへと向う。 勝手知ったる他人の会社って感じで社長室へ向ったようだ。 俺は何が起こったのか理解できずに立ち尽くしていたが、周囲の強烈な視線に気がつき我に返る。 慌てて左右を見てみると、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる男性社員や、明らかに嫌悪感を露にした女子社員、それに好奇心を剥き出しにしている連中と様々だが…。 何故そんな視線で見られなきゃいけないんだ?と考えながら、ハッとする。 頭の中で先ほどの市田社長の言葉の数々が鮮明に再生される。 『最高の夜』 『虜』 『翻弄』…。 げぇぇ!市田社長の強烈なキャラをみんなが知ってるなら、この言葉から連想されるのって…。 「椎名君。おはよう。」 真っ青になっていると、背中を叩かれた。 振り返ると、超ご機嫌な園田課長が立っていた。 よ、よりにもよってこんな時に…。今のやり取り見られたのか? 「椎名君。君もなかなかやるね。あの市田社長にあそこまで気に入られるなんて。」 やっぱ聞かれてる〜!! 「まさか君がそんな大胆な行動に出るとはね。意外だったよ。」 園田課長は笑いを堪えているのか、声が震え気味。 「だ、大胆って…?」 「なるほどね。素朴な振りして、君も案外擦れてるってことか。まあ、それはそれで面白いがね。それにしても、あの百戦錬磨の市田社長にあそこまで言わせるとは、君は相当のテクニシャンってことだね。」 「ちょ…ちょっと待って下さい!!」 「…このことを香苗が知ったら、君のことを見る目が変わるね。」 耳元で囁く。 園田課長の顔つきが悪意のあるものに変わっていた…。 「体を張って仕事を守るとは頭が下がるよ。ま、その調子で彼女のご機嫌を損ねないようにこれからも頼むよ。」 ポンポンと俺の肩を叩き、言いたいことだけ言って笑いながら去って行った。 こらーーーー!人の話を聞きやがれ!!! わざと大きな声で話しやがったな!! ちくしょう! これで周りの奴らは好き勝手に色んな妄想しちまう! と、今度は横からバサッと何かが落ちる音がする。 目を向けてみると、床にショルダーバッグが落ちていて、そのまま視線を上に持って行くと、蒼白な顔した夏目が立っていた。 最悪だ…。夏目にも聞かれたんだな。 「し、椎名君。」 うあ。完璧に誤解してるぞ! 「夏目。勘違いするなよ!!今のは違うからな!!」 が、夏目は俺の声が聞こえていないようで…へなへなとその場に座り込み、いきなり泣き出した。 「わ、私が大変なミスした所為で椎名君が…椎名君が…。」 ガックリとうな垂れポロポロと涙を落とす夏目…。 周りからは「どうやら体売ってまで契約取ったらしいわよ。」とか、「いくら成績上げたいからって最低よね。」とか…ひそひそとあることないことコメントする声が聞こえてくる。 ああもう!!落ち着け洋介! まずは順繰りに整理して行こう! とにかく今は夏目の誤解を解かなきゃ!! 俺は何とか夏目を宥め、休憩室へと連れて行く。 幸い休憩室には人はおらず、一番奥の席に向かい合うように座った。 薔薇の花束は隣の席へうっちゃっといた。 缶コーヒーを2つ買って、ひとつを夏目の前に置く。 夏目はまだ泣きじゃくってる…。 「夏目。お前、酷い誤解をしてるぞ…。」 「誤解?」 「お前さ。昨晩俺と市田社長の間に何かあったと思ってるだろ。」 夏目は辛そうに目を伏せ小さく頷いた。 「さっきの市田社長の口ぶりからだとどう考えたって…椎名君、責任取るために……相手をさせられちゃったって思うでしょう?」 大粒の涙が夏目の目から零れ落ちる。 「んなことあるわけないだろ!!」 即刻否定した。 夏目は、真っ赤になった目を見開いて、ビックリしたように俺を見る。 お〜い。勘弁してくれよ…。 「何でそんなに驚くんだよ!」 「だ、だって…。」 「だってじゃないだろ!何で好きでもない奴とそういうことしなきゃいけないんだよ!だったらクビになった方がマシだ!」 「…本当に?本当に何もなかったの?」 夏目は縋るように聞いてくる。 「俺、そんな男に見える?」 俺がそう言うと、夏目はプルプルと首を横に振る。 そして、不安な顔が一転して安堵の顔に変わった。 ホッ…。どうやら信じてくれたようだ。 俺が肩の力を抜いた途端、恐怖の怒鳴り声が休憩室に響き渡る。 「洋介ーーーーー!!」 こ、この声は…恐る恐る入り口に目をやると…。 凄い形相の香苗が立っていた。 怒り全開の顔だ…。 カッカッカとヒールの音を立てながら俺の方へと一直線に向ってくる。 その迫力に、俺は思わず立ち上がり後退るが、一瞬早く香苗が俺の胸倉を捉え掴みかかってきた。 「洋介!!」 「は、はい!」 思わず返事をしちまう。 「体を使って仕事を取ってくるなんて最低!!恥を知りなさいよね!!」 と、叫び拳骨を振り上げる!! 見事に決まった右ストレート! 俺は無実だーーーーー!!!! この後、俺は命がけで香苗の誤解を解いた…。 |
2003.2.13 ⇒
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