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 その主婦は、心もち顔を上げ、のんびりと話し出す。

「クロの飼い主さんが珍しく人と話しをしていたから驚いたのよね…。」
「その相手ってどんな人でした?」

 悟はスローテンポな主婦にちょっとイライラしながら質問した。

「あなたと同じような制服を着た少年…って言うより青年って言った方がいいくらいの男の子
だったわ。ちょっとガラが悪そうだったけど、なかなかカッコ良い子だったわね。おじさんとの
会話までは聞こえてこなかったけど、2人ともベンチに座って話し込んでた。おじさんは相変わらず
ブスッとしてたけど男の子の方は親しげだったわ。クロもよく懐いてたみたいだったし…どんな
関係なのかしらって不思議に思ったの。」

 悟と春香は、その人物は川田尚也かもしれないと思った。
 悟の高校の制服など、ごくありふれたどこにでもありそうなシンプルなものだ。
 あまり当てにはならないが、でもここは尚也が住んでいる地元…。

「いつ頃?いつ頃見たんですか?」

 春香が主婦に詰め寄るように尋ねた。
 主婦はその迫力に押され、ちょっと逃げ腰になる。
 そして、悟に目をやりながら答えた。

「その子の制服見て思い出したわけだから最近だと思うわ。」

 白い半そでシャツ。
 夏服だ。悟たちの高校の衣替えは6月1日。
 少なくとも6月に入ってからの出来事なわけだ。

 春香は主婦の話を聞き終わって、身体の震えを感じた。
 悟もかなり動揺していた。

 バスで感じた不吉な想いが脳裏を過ぎる。
 クロと川田尚也との接点。
 クロの伝えたいことの根底には『交通事故』が絡んでいる、と確信していた悟と春香。
 だからこそ、クロと尚也は関係ないんだと否定したかった。
 でも、そう思えば思うほど、関わり合っていると思えて、不安感は募るばかりだった。

<クロ、お前が話ができたらよかったのに…>
 悟は大人しく自分の傍に寄り添っているクロを見つめた…。

 悟たちは公園を後にし、重い足取りでクロが導くまま散歩コースを歩いていた。
 悟の心を感じているのか、クロもどことなくシュンとし、散歩で高揚していた気持ちが萎えてしまって
いるようだ。
 しばらく住宅街を歩いて行くと、似たような外観をした新築らしい一戸建ての家がいくつも並んでいる
一角に足を踏み入れる。

「…何だかどこが自分の家だかわからなくなりそうだな。」
 悟は思わずそうコメントしてしまった。

「きっと一斉に建てられた分譲住宅なんでしょうね。」
<確かに迷いそうだわ>
 春香も辺りを見回しながら悟と同じことを感じていた。
 クロはと言えば、ひたすら脇目も振らず歩き続け、そのうち住宅地も途切れ荒れた竹林へと続く
小道に入り込んで行った。


「何だよ。随分と寂しいトコ通るんだな…。」

 悟の言葉に、少しだけ反応したクロ。
 ちょっとだけ振り返り、クフンと鼻を鳴らした後、先へと進む。

 行き止まりまできた所で、一軒の古い家が姿を現した。
 竹林に囲まれ、ポツンと建っている2階建ての家だった。
 見るからに年季の入った木造住宅だ。
 家の脇に狭い駐車場があり、小さな軽自動車が置かれている。
 家の周りは垣根で囲われていて、門は木で出来た簡単な木戸があるだけだった。
 クロは真っ直ぐそこへ歩いて行き、門の前で立ち止まる。
 まるで<門を開けて>と目で訴えているようだった。

「ここがクロの家みたいだ。」

 門の前に立ち、悟と春香は家を見上げる。

「くぅ〜ん。」
 催促するように切なげな声を上げるクロ。

「わかったって。今開けるよ。」
 悟は木戸に手をかけ力を込める。
 立て付けが悪いらしく、ガタガタと音を立てながら、それでも何とか開けることが出来た。
 すると、クロは嬉しさが込み上げてきたのか、軽い足取りで門をくぐりさっさと敷地内へと
入って行く。

<幽霊なんだから木戸くらい通り抜けてみせろよなー>
 クロの、どこまでいっても幽霊っぽくない行動に苦笑いする。

「俺たちも行こう。」
 悟は春香に声をかけた後、「お邪魔しますー。」と、言いながら中へと入って行く。
 春香も一瞬躊躇したが、後に続いた。
 十数歩で家のドアの前まで辿り着く。このドアもお世辞でも綺麗とは言えないものだった。
 既にクロは座って待っていて、尻尾を振って
<中に入るのー>っと意思表示している。

 ドアの右脇に表札があり『鍋島』と書かれていた。
 そのすぐ下にチャイムのボタンがあったので悟は躊躇うことなく押してみる。
 ピンポーン…という音がし、しばらく待ったが反応はまったくなかった。

 それを2、3回繰り返したが、家の中からは人の気配すら感じられない。

 辺りは悟たちの気配以外は時折風で竹やぶが擦り合う音くらいしか聞こえてこない空間。
 …少し不気味だった。

「ちょっとそこで待っててくれ。」

 悟は春香にそう言って、庭に足を踏み入れる。

<悪ぃ。ちょこっとだけ邪魔するぜ>
 他人の家の敷地内を勝手に歩き回ることに罪悪感を感じ心の中で詫びる。

 辺りに目をやりながら家の周りを一周する。

 最近草取りをしたらしく地面には小さな雑草の芽があるくらいで、庭は手入れがされていた。
 家自体は古いが、大切にして住んでいるようだ。
 全ての窓はちゃんと戸締りがされていて、雨戸まで閉めてある。
 2階の窓は雨戸を閉められてはいなかったが、カーテンできちっと閉じられていた。
 明かりもついてなければ人の気配もない。

 どこかに旅行に行っている…といった感じだ。

 ドアの前に戻ってきて、少し不安げに待っていた春香にため息混じりに報告する。

「留守みたいだ。」
「そう…。」

 クロは状況がわかっているのかいないのか、しきりに尻尾を振っている。
 悟は少し寒さを感じ空を見上げる。
 もうすっかり日も暮れ、空は夜の顔だ。

「今日はもう帰ろうぜ。」

 とりあえずクロの家と飼い主が『鍋島』という名字だということはわかった。
 今日はこれ以上調べることは無理だと思ったのだ。

 悟の言葉に春香は頷いた。

 名残惜しそうに何度も振り返るクロを宥め、門を出る。

 門を出た時、すぐ脇にあった郵便受けが目に入る。
 この時間なら夕刊がきているはずだが新聞は入れられていない。
<新聞、とってないのかな…>

 悟は傍に行って、投入口からそっと中を覗いてみた。
 大きめの郵便受けなので、まだ余裕があったが郵便物や広告がたまっていた。

「クロの飼い主もしばらくこの家に戻ってないな。」

 春香にそう言って、目線で郵便受けの方を指す。
 それを見た春香は、表情を固くした。

 『しばらく』…そう、ちょうど、1週間くらい…。
 尚也が姿を消したのと同じくらいの時間、この家の主は家に帰っていないと感じた。

「偶然じゃねーよ。こんなの…。」

 ちゃんとした確証はない。でも悟はいなくなった川田尚也とクロ、そしてこの家の主『鍋島』は
クロの示した交通事故と何らかの関係があると思った。
 それは春香も同じだった。

 悟の頬に冷たいものが当たった。
 上を見上げてみると、今度は額に当たる。
 ポツリ、ポツリと夜空から落ちてくる雫。

「ったく、降り出しやがった。」

 雨が瞬く間に湿った音を立てながら地面を濡らしていき、土の匂いが空気に混じって
立ち込めた。
 温かくなってきた6月とはいえ、雨は冷たく悟と春香の上に降り注ぐ。

 悟は鞄を頭に乗っけて雨をしのぐ。

「おい、本格的に降り出す前に急いで帰ろうぜ!」

 そう言って春香に視線を向けて…目を見開いた。

「…笹山君…どうしよう。」
「中山…。」

 春香の瞳からポロポロ涙が零れる。
 涙と雨が混じり合い頬を濡らしていく。

「川田先輩…無事なのかなぁ…。怪我とかしてたら…どうしよう…。」

 春香は頼りなげな目で悟を見つめ、泣いていた。
 クロが春香の悲しみを感じ前足を彼女の膝にかけ、必死に慰める。

「くぅーん…くぅーん。」
 悟の耳にだけ、切なげなクロの声が聞こえてくる。

<泣かないで>
<そんなに悲しそうに泣かないで>
 クロの気持ち。
 それはそのまま悟の心を映しているようで…。

「泣くなよ、中山。」

 悟は真っ直ぐ春香を見つめた。

「俺、お前が泣くと困っちまうって言っただろ!」
「笹山君…?」
「お前に泣かれると、何だか知らないけど胸が痛くなるんだよ!」

 春香の涙で滲んでいる目に映る悟は、夜の暗さも手伝って表情まではよく見えなかった。
 でもその声は、とても辛そうなものだった。

<ちくしょう!何でこんなに胸が痛いんだよ!>
 それに加えて切なさと苛立ちとが悟の心を締め上げていた。

<川田尚也はお前にとってどんな存在なんだよ!>
 そんな言葉が脳裏を過ぎった時、この苛立ちは嫉妬なんだと初めて理解した。
 先ほど公園で見た春香の笑顔。
 尚也ならもっと春香のことを笑わせてあげられるのかもしれない。
 春香を泣き顔から笑顔へと、尚也なら簡単に変えてあげられるのだろう。
 そう思うと切なくて…。

「俺が川田尚也を探し出してやるから!草の根分けてでも、探し出してやるから!」

 悟の必死な言葉を聞いて、春香は少し驚いたように瞬きをした。
 春香には悟がどうしてそんなに自分に力を貸してくれるのかが理解できなかった。
 どうしてそんなに辛そうなのかがわからなかった。
 春香はもう長いこと人の心に接することを避けて生きてきた。
 信じることも、その人のことをもっと知りたいと感じたのも、尚也と出会って久しぶりに
そんな感情が自分にもまだ残されていたんだと意外に思ったくらいだった。

「笹山君…。どうして?どうして私にそんなに親切にしてくれるの…?」
 思わず聞いてしまった。

 春香の言葉を聞いて、悟は考えるより先に気持ちを言葉にしていた。

「お前のことが好きなんだよ!」

 そう叫び、ようやく自分の心にある切なさと苛立ちと、胸の痛さの原因を知った。

<そうだ…俺、中山のことが好きなんだ…>

 頭の上に乗っけていた鞄を支えていた悟の手が脱力したように力を失い、鞄は
地面に落ちた。

 告白した悟も告白された春香も、激しく降りだした雨にずぶ濡れになっていることにも気が回らず、
その場に立ち尽くしていた。
 クロは呆然としている2人の間を行き来し、必死になって平等に<元気を出して>コールを
送り続けていた…。


 これは、悟の本当の意味での『初恋』だ…。

2002.5.29