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聖なる夜の贈りもの

 12月24日。クリスマスイブ。
 夜の街は煌びやかで、周りを歩くのは、ムカつくほどイチャついているカップルばっか!!
 俺はと言うと、今、人生の選択を迫られている。
 俺には3年付き合っている彼女がいる。
 朋子って言って、少々気は強いけど、根は優しい女だ。
 俺も朋子も、就職してからは家を出て、ずっと一人暮らしを続けている。
 この3年、毎年クリスマスイブは、朋子の部屋で過ごすのが定番になっていた。会社帰りに、ケーキとシャンパンを買って、手料理を用意してくれている朋子の部屋へ行く。……今年も同じクリスマスが来ると思っていた。
 だが、しかし!!
 昨晩電話で言われたんだ。
 「私と結婚して。その気がないなら、別れて。もし結婚してくれるのなら、いつもの通り、私の部屋に来て。明日待っているから。でもその気がないなら、二度と私の前に現れないで」
 突然の宣告。
 とても真剣な声だった。
 俺が29歳。朋子が27歳。確かに、結婚するにはちょうど良い年齢なのかもしれない。
 俺は平凡なサラリーマン。それなりに努力してきたし、給料もそこそこもらっている。一家の大黒柱になれるとは思う。地道にコツコツ貯めて来た貯金もある。状況的には、なんら支障もない。
 なのに、「じゃ、結婚しようか」って言葉がどうしても出てこなくて、電話で黙り込んでしまった。
 「明日、待っているから」って言った朋子の声は、必要以上にしっかりしていた。
 強がりな朋子は、辛い時ほど毅然としているから、余計に気持ちが伝わってきちゃうんだ。
 内心、悲しかったに違いないと思う。
 即答できなかった俺に、幻滅しているかもしれない。
 我ながら情けないと思う。朋子のことはとても愛してる。一緒にいると安らげるし、楽しい。逢える前の日には、ワクワクしている。大切に想っているのは嘘じゃない。
 なのに……。
 『結婚』ってものに、酷く尻込みしている。これまでの間、考えてこなかったわけじゃない。
 でも、まだ先の話だと思って、現実のものとしては意識していなかった。
 いきなり選択を迫られて、自分でも驚くくらい動揺している。
 家族になるっていう契約。相手の人生に責任をもつ契約だと思う。
 朋子を失うのは嫌だ。守りたいとも思うし、ずっと一緒にいたいとも思う。
 それなのに、もう一方で、背負う責任は自分に対してだけでいたい、自由でいたいと強く思ってしまっている。
 男として、情けないこと極まりないと思う。でもさ、自分の気持ちは誤魔化せないだろう?
 今の俺は、正直『結婚』ってもんを、とても重く感じてしまう。
 で、未だに決心がつかずにいる。
 帰ることも出来ず、かと言って朋子の部屋にも行けず、夜の街をさ迷っているってわけだ。
 タイムリミットは、今夜の12時。今日中に答えを出さなきゃ、朋子の性格から言って、本当に二度と俺に逢ってはくれないだろう。
 恐ろしいくらいに潔い女だから。
 俺は腕時計を見る。
 「8時か……」
 24日が終わるまで、あと4時間。
 「どうしたもんかなぁ……」
 冷たい風が通り過ぎる。俺は身を震わせ、辺りを見回す。
 ふと、目に留まった喫茶店。店先に、小さなツリーが飾られている。
 俺はとりあえず、珈琲でも飲みながら、人生について考えようと思い、店のドアを開いた。
 ドアに掛けられた鈴が、チリリンって音を立てて俺を出迎えてくれる。
 で、もう一つ俺を出迎えてくれたのは、実に異様な光景。
 店内は、4人席が3つのみの狭い空間。店の店主と思われるのは、30代後半の女性。
 長い髪を後ろで一つに束ね、エプロン姿がとても似合っている。ちょっと清楚な感じの女性だ。
 で、もう一人いたのが、40歳前後の一見真面目そうに見える男性。背が高く、なかなかの男前。
 きっちりとしたスーツ姿を見るに、エリートサラリーマンって感じだが……。
 でもでも、こいつは客ではない……と思う。いや、もっと積極的に客じゃないと断言出来る。
 だって、この2人は、普通の喫茶店ではありえない状況にいた。
 店の中央で、向かい合うように立っている2人。
 男の手には、包丁が握られていて、刃は女性の喉許に向いていた。
 今まさに、女性の首を掻き切る直前だったのに、俺の登場で思わず手を止めたって感じ?!
 2人とも、俺に注目した。
 男の目は、泣いた後のように真っ赤だ。一方、女性は妙に落ちついた、優しげな眼差し。
 「あ、お取り込み中、すみませんでした」
 俺は平静を装い、思いっきり営業用スマイルでペコッと頭を下げ、クルリと向きを変える。
 そそくさと退散しようとしたが、そう上手くはいかなかった。
 「待て!!」
 男が凄い勢いで駆け寄ってきて、俺の首根っこを掴み、店の奥へ引っ張りこんだ。
 なんつー馬鹿力!男は俺よか大柄で、俺はあっけなく後ろにヨロケて尻餅を付いてしまった。
 「何すんですか!!!」
 一応抗議。でも、ちょっと声が裏返ってたかも。
 男は俺の言葉には答えず、ドアに鍵を掛け、クルリと俺たちの方へと向きを変えた。
 ドアの前に立ちふさがる形で、俺と女性に包丁を向け威嚇する。
 「静かにしろ!」
 男は興奮し、声が震えていた。
 「今夜、俺に出会ってしまったことを不運に思って諦めるんだな!」
 「不運って……どういうことだよ!」
 「俺と一緒に死んでもらう!」
 おい……。
 ちょっと待て。
 脳みそフル回転させ、推測する。
 ひょっとしてこの男、自殺する気満々?!しかも、一人じゃ寂しいからって、たまたま出会った奴と、仲良く無理心中したいってことか?
 俺は、蛇に睨まれた蛙状態で、迂闊に身動き出来なくなる。
 なぜかと言うと、この男、包丁を持つ手も、声と同様に震えている。
 ちょっとでも刺激すると、すぐにでも襲い掛かってきそうだったから……。

 包丁を持って、俺を殺そうとしている男。
 尻餅をついたまま、立ち上がれずにいる俺。
 非日常的な光景を前にして、頭の回転が思いっきり遅くなる。
 これは夢じゃないのか?

 「ねえ。落ち着いて」

 俺の背後から、女性の声がした。
 俺も、多分男も、互いに神経を集中していたので、俺の後ろにいた女性の存在を忘れていた。
 俺は、顔だけ後ろへ向け、見上げる。
 女性は、真っ直ぐに男を見つめていた。
 とても落ち着いていて……いや、優しく微笑んでいるようにさえ見える。
 ゆったりとした声で、男に語りかける。一歩間違うと、子供に向って言い聞かせているようだ。
 チラッと男を見てみると、未だに興奮状態。でも、女性の話に、耳を傾け始めている。
 「この人は、巻き込まないであげて。私が一緒なんだから、寂しくないでしょ?」
  ……なに??
 俺は、女性の言葉がすぐには理解できなかった。
 『私が一緒なんだから、寂しくないでしょ?』……この女性、確かそう言ったよな?
 ってことは何か?この女性が、この男に刺されそうになってたのって、合意の上ってことか?
 ってことはこいつら知り合い?って言うより、恋人同士かなにかなのか?
 ってことはもしかして、2人で心中でもしようとしてたのか?
 様々な想像が脳裏を駆け巡り、俺は自然と女性を凝視してしまう。女性は俺の視線に気が付き、苦笑いする。
 俺が何を思っていたのか察したのか、首を小さく横に振った。
 ……どうやら、俺の予想はハズレらしい。
 女性は再び男を見つめる。
 「ね、この人は、私やあなたとは違うのよ。巻き込んじゃいけない」
 男に語りかける声音は、相変らず優しい。でも、不思議と気迫が感じられる。
 「あなたは死にたいと思っていた。私はどんな形でもいいから命を奪って欲しいと願っていた。でも、この人は違う」
 女性は立ったまま、俺の肩にそっと手を添える。
 「この人はあなたから逃げようとしたわ。生きたいって思っている証拠よ」
 う……。確かに、俺は店の状況を見た途端、逃げようとした。女性が刺されそうになってるのに、助けようともせずに、反射的に逃げることを考えた。
 良心がズキズキと痛むが……に、人間だもん。怖いモンは怖いさ!仕方ないだろう?
 「彼は生きたいと願っているの。だから、ここにいるべき人じゃないのよ。ここから出してあげて」
 女性の説得に、男は少しずつ肩の力を抜き、ゆっくりとドアの前からどいた。
 どうやら、俺を解放してくれるらしい……。
 「さ、早く立って」
 「え?」
 俺は、突然助かる方向へ向った展開に、すぐには反応できなかった。
 「あなたのお名前、もし良ければ教えてもらえるかしら?」
 「……岡本大祐」
 「岡本さん。早く立ちなさい。あなたはここにいるべき人じゃないの」
 名前を呼ばれ、ようやく身体が動き出す。女性が俺に名前を尋ねた意図が、少しわかったような気がした。
 緊急時には、とかく呆然としがちだ。名指しで指示された方が行動できるんだな……なんてことを考えながら、立ち上がる。
 ようやく立ち上がったものの……本当に俺だけここから逃げ出していいんだろうか?
 俺は女性に、答えを求めるような眼差しを向ける。
 女性は、俺の耳元でそっと囁く。
 「あなたは何も気にすることはないの。早く行って」
 そう言われても……。
 俺は、男に聞こえないよう、注意を払って、確認を取るような質問をしてしまう。
 「あなたと彼は、知り合いではないのですか?」……と、訊いてみた。
 「ええ。今夜初めて会ったばかり。つい30分くらい前に彼がこの店に入ってくるまでは、何の関わりもない赤の他人」
 「それなのに……」
 それなのに、何で彼に大人しく殺されようとしてるんだ?
 「いいの。あなたは余計なことは考えないで。私は彼に殺されることを心底望んでるの。そして、彼は誰かを道連れに死にたがっている。私と彼は、今日出会うべきして出会ったの。でも、あなたは違う。あなたは私たちのことで、何も気に病むことはないのよ。早く行って」
 そうだ……。女性の言うとおり、俺は断じて死にたくなんかない!ましてや殺されるなんてまっぴらごめんだ!
 情けないと思われようが、知るもんか!この男から逃れたい!
 それにさ、この女性は殺されることを望んでるんだ。2人は死を望んでいる。合意の上なんだ。
 俺が関わる権利も義務もない。
 自分を正当化する為の言い訳を、一生懸命思い浮かべ、出口へと歩き出す。
 ドアの横には男がいる。まだ手には包丁を持っている。突然豹変し、再び襲ってくるかもしれない。
 緊迫感で胸がドキドキした。でも、それ以上に、俺の心中を支配したのは、『迷い』だった。
 俺がここからいなくなった後、この2人は本当に死んでしまうんだろうか?
 だとしたら、俺は本当に、今ここから去ってしまっていいんだろうか?
 答えが出ないまま、ドアの前まで辿り着いてしまった。俯き加減で、立ち尽くす。
 男が、俺をじっと見ているのを感じる。
 俺も、恐る恐るとではあったけど、男を見てみた。
 ……男は、とても真面目そうで、こんな事件を起こすような人物とは思えない。
 興奮状態も落ち着いてきたのか、自分の取った行動に、少し怯えているようにさえ見える。
 いったい何が男をここまで駆り立てたのか、疑問に思う。
 女性にしたってそうだ。何で死にたいなんて思うんだ?しかも、自殺ではなく、他者に殺されることを望んでいるなんて。俺には到底理解できない。
 何でだろう。こんな状況なのに、朋子との会話を思い出す。
 まだ付き合いたての頃。
 朋子からの告白で始った俺たちの関係だったから、俺、聞いたことがあるんだ。
 一体俺の何処を好きになったのか。
 『私が大祐に惚れた理由?』
 『うん。教えてくれよ』
 『大祐って、優柔不断だし、決断力ないし、だらしないトコもかっこ悪いトコも山ほどあるけどさ』
 『思い切りけなし言葉ばっかじゃねーか』
 『いいから最後まで聞きなさいよ。あのね、大祐って、どうしようもないところ山ほどあるけどさ。あなたが考え抜いた末、最後に選択する道、私、結構気に入っているの』
 『は?なんだそりゃ』
 『つまり、あなたのことが好きってことよ』
 あの時の朋子はとても嬉しそうだった。
 今俺が取ろうとしている選択に、朋子は何て言うだろう?
 軽蔑するだろうか?
 勘弁してくれよ。俺は正義の人じゃない。自分の命が危ないってのに、赤の他人のために動ける人間が世の中に何人いる?
 考えとは裏腹に、俺の足は止まったまま動かない。
 一向に店を出て行かない俺を、不審に思ったのか、男が口を開く。
 「何をしているんだ?早く出て行け」
 命令口調。でも、男の声音から、言葉とは逆の気持ちが込められているような気がした。
 まるで、俺に出て行って欲しくないって感じの、縋るような声。
 もしかして……止めてもらいたいんだろうか?
 「岡本さん。早く出て行って!」
 女性が、少しだけ強い口調で俺を追い出そうとする。
 俺だって早くオサラバしたいのが本音だけど……。
 あ〜!!もう!!ダメだ!!ちくしょう!俺はとんでもなくバカかもしれないけど、今ここを出て行ったら、一生後悔しそうだ!!
 俺は180度向きを変える。。
 男は、俺の行動を見てビクッと身体を硬直させ、再び包丁を強く握り締める。
 女性の表情も強張った。
 俺は、女性に心の中で「ごめんなさい」って詫びる。
 俺のこと、助けてくれようとしていたのに、従えない。
 「どうしたの?」
 女性がため息混じりに訊いてくる。
 「あの……2人とも、何でそんなに死にたいんですか?」
 「お前には関係ないことだ」
 男が横から即答した。女性も、無言だけど、同じ心境なのだろう。
 質問を変えてみる。
 「あなたたちが、今、死を選ぼうとしている理由を知っている人はいるんですか?」
 「いずれ、大まかな理由は嫌でも周りに知れるだろう……。でも、俺の気持ちを本当にわかる人間などいない」
 男が言葉を詰まらせながら答えた。
 一方、女性は静かに首を横に振る。
 そうか……。女性の場合は他殺を望んでいるんだ。男の犯行が実際に強行された場合、周りの人間は、彼女の死に対して、『無理やり命を奪われた』ってことで納得する。誰も彼女の死に対し、詮索しないだろう。ましてや、彼女が自ら他殺を望んでいたなんて、誰も思わないだろうから。彼女の『殺されたい』って願う理由は、永遠に闇の中。
 「あのですね……遺書代わりに俺に話してみる気、ないですか?」
 2人はキョトンとする。
 「別にそれで何かが変わるってわけではないですし、正直言って、俺には、多分あなた達を救う力はないと思います。ですけど、あなた達2人の死の真相を知っている人間が、この世の中に一人くらいいたっていいじゃないですか」
 一度話し出したら、言葉がスラスラ出てきた。
 「今夜はクリスマスイブですよ。あなた達にとって、最期の時間なんです。クリスマスイブを楽しむだけでも良いですから、この際、少しだけ語らいませんか?急ぐ必要ないじゃないですか」
 いちかばちか……。どこまで俺が食い下がれるかわからないが、できるだけやってみよう。でも、危なくなったら逃げるぞ!!
……その時は、俺の頑張りを認めて、お願いだから責めないで欲しい……。

 女性と男とが、ちょっと戸惑いながら互いに目配せする。
 と、その時、男の胃が空腹を訴え、切ない音を立てる。
 「こ、こんな時に……」
 男は恥ずかしさで顔を赤くし、慌てている。
 男の様子に、女性は思わずクスリと笑う。
 「何か食事を用意するわ。岡本さん、それと……あなたも、席について、待っていて」
 女性が厨房に向おうとすると、男は包丁を構え制止させる。
 「勝手に動くな!俺の許可を取れ!」
 女性は笑顔を崩さず、男に従う。
 「はい。わかりました。料理をしても良いでしょうか?」
 「あ、ああ。行って良いぞ」
 「ありがとう。私の名前は谷山いずみ。あなたは?」
 女性……いや、谷山さんは、サラッと自己紹介をし、当たり前のように男にも名前を訊ねた。
 男は、彼女につられたようで、先ほどと同様に丁寧に名を名乗る。
 「あ、私は天貝勉と申します」
 おお!『俺』から『私』に変わった!!しかも、物腰まで柔らかいぞ!!
 天貝さんは、名前を明かした直後、自分の間抜けさに気が付いたようで、ハッとし、顔を顰める。
 素直に名乗ってしまったことを悔しがっているようだ。まあ……確かに、人を殺そうとしている『凶悪犯』としてはかなりお間抜けさんぶりだからな。
 「……どうせ死ぬんだ。名前くらい明かしてもいいよな」
 天貝さんは自分を慰めるように呟き、気を取り直しにかかった。包丁を俺の方に向け、命令する。
 「岡本さ……岡本!お前は店の一番奥の席に座れ!!」
 さん付けしそうになったのを言い直す天貝さん。俺は、正直、天貝さんに対し、恐怖を感じなくなってきている。それでも一応慎重な素振りで、指示された通りに移動し、一番奥のテーブルの一番奥の席に座る。
 天貝さんはと言うと、ドアを手早く開けて、クローズの札をかけ、再び閉め鍵を掛ける。これで、外の人間は、滅多なことじゃ店内に興味はもたないだろう。
 天貝さんは、小さく息を吐き、ドアに一番近い席に腰かけた。俺たちが逃げられないように選んだな席なんだろう。
 谷山さんが、トントンってテンポのいい音を立てながら、野菜を刻む。
 壁に掛けられている時計の短針が『9』の字を指した頃には、店内はとてもいい匂いで包まれていた。
 夜の9時か……あと、3時間でクリスマスイブが終わっちまう。こんな状態じゃ、結婚についてじっくり考えること出来ないよな……。
 谷山さんは、3枚の大皿を出し、それぞれに出来上がった料理を載せていく。鶏の唐揚げ。ポテトサラダ。サンドイッチ。
 で、天貝さんと俺のテーブルの上に置きながら「もともと軽食だけ出す喫茶店だから、ご馳走ってわけにはいかなくて、ごめんなさいね」と詫びる。
 ここで天貝さんが、またまた律儀な犯人さんになる。
 済まなそうに詫びる谷山さんに、恐縮したようだ。
 「いえ、充分美味しそうです。ありがとうございます」
 頭まで下げてる。で、さっきと同様、後になって自分の咄嗟の行動を悔やんでいる。
 ……俺、笑いそうになるのを我慢するのに、ちょっと苦労した。だって……この天貝さんって人、とてもじゃないけど人殺しが出来るようには思えない。多分、人を殴ることも出来ないだろう。追い詰められて、錯乱状態になって、思わず包丁を突きつけたとしても、直前で、ギリギリのところで踏み止まる人だと思う。……まあ、なんの確証もないんだけどね。
 とにかく、料理と、シャンパンの代わりにワインが配られた。ハーフボトルの赤ワインが一本ずつ。
 谷山さんは、俺の隣のテーブルに、俺と向かい合うように座る。
 「じゃあ、頂いてもよろしいでしょうか?」
 谷山さんが、天貝さんにお伺いを立てる。天貝さんは仏頂面で頷く。
 乾杯って状況ではないので、何となくって感じで食事がスタートする。
 谷山さんが作ってくれた料理は、とても美味しい。天貝さんも、その美味しさに大満足しているようだ。夢中になって食べている。
 本当に美味しいなぁ。何てことないメニューだけど、だからこそ、谷山さんは料理上手だと思う。サンドイッチの具も、凝っていて……って、料理に夢中になってる場合じゃない!
 遠慮しながら声をかける。
 「あの……」
 2人が俺に注目する。
 俺は、この2人が背負っている『事情』ってやつを訊こうと思ったけど、先に天貝さんが口を開く。
 「……実は、これは俺にとって、3日ぶりの食事なんだ」
 「え?」
 思わず声を出してしまった。谷山さんも、少し目を見開く。
 「一週間前から家にも帰っていない。……もう二度と帰れない」
 天貝さんは、ワインを一口飲んで、重いため息をつく。そして、淡々とした声で話を続けた。感情を必死にコントロールしているように見える。
 「私の父と母は、学歴や肩書きで人の優劣、価値を判断する人です。私は一人息子で、幼い頃から聞き分けが良い子供でした。厳しい両親でしたが、幸いなことに私も期待通りの学歴を残すことができました」
 天貝さん。自分で気が付いているのかな……。完全に丁寧は話し方になってる。これが天貝さんの地なんだろう。
 硬い表情で、自分のことを語る天貝さん。きっと、天貝さんは自分のことを話すってことを、あまりしてこなかった人なのかなって思う。
 「おかげで、苦労もなく一流といわれる大企業に就職も出来ました。結婚も、好条件のお見合いでとても素敵な人とめぐり逢えて、2人の子供にも恵まれて……私のこれまでの人生、順風満帆。この年になるまで挫折を知らず、両親にも妻にも子供達にも頼られ、みんなの希望に満足に応えられる自分でした。私にとっても、それが何よりも誇らしかった」
 天貝さんは、持っていたワイングラスに、ギュッと力を込める。ここから先は、天貝さんにとって、話すのに勇気がいる展開なんだと感じ、俺も心の中で身構える。
「でも……2年ほど前に、務めていた会社を退職しました。名目上は業績悪化でのリストラでしたが、納得できなかった。何故私がって考え続けました。自分なりに会社の利益に貢献してきたと自負していましたから、私の人生全て否定されたようで……屈辱的で、納得など出来なかった」
 天貝さんが、ここで、グラスのワインを一気に飲み干し、傍にあったハーフボトルのワインを注ぐ。
 「クビにされたなんて、家族にはとてもじゃないが言えません。悟られないように、毎朝スーツ着て出かけて就職活動していました。家計は私が管理し、必要な分だけ妻に渡していましたので、これまで貯めた貯金を切り崩し、毎月給料を装い渡していました。世間知らずでお嬢様育ちの妻は、幸いなことに今日まで全く気が付いていません。父も母も何とか誤魔化して来れました。気付かれないまま再就職先が決まれば問題なかったのですが、私が希望するだけのポストと収入を得られる会社は見つかりません」
 「希望するポストって……少しは妥協して、まずは就職することが最優先だと思うんですけど……」
 天貝さんなら、贅沢を言わずに探そうと思えば、再就職先はいくらでもありそうなものだが……。
 俺が口を挟むと、天貝さんは俺をキッと睨む。
 「両親や妻が納得する会社でなければならないんです!!今まで務めていた会社に引けを取らないような会社でなきゃ絶対にいけないんです」
 語気が荒い。
 ……納得って……このご時世、一流企業に就職するのは難儀でしょう……。
 「でなきゃ私の居場所はどこにもないんです!」
 天貝さんは、言葉を詰まらせ、しばし黙り込む。
 重たい空気。
 天貝さんって……考え方凝り固まってないか?
 一旦感情が爆発してしまったためなのか、堰を切ったように話し出す。
 「一週間前、冬のボーナスだといって、最後のお金を妻に渡し、家を出ました。もう、家には帰るつもりはありませんでした。月末には給料日の予定なんですが、もう渡すお金がない。もう家にもいられない。財布に残ってたのはわずか1000円。3日前にそのお金も使い切り、私は無一文になりました。家を出る時、妻の目を盗んで包丁を鞄に入れておいたんです。方法は考えてはいませんでしたが、死のうと思っていましたから、包丁も何かの役に立つかもしれないと思ったんです。この一週間、ずっと死に場所を求めて街をさ迷っていました。情けないことに、いざ命を絶とうとすると、怖くて躊躇ってしまい、今日まで死に切れずに生きています」
 天貝さんは、引きつった笑顔で顔を歪ませる。
 「でも、やっと今夜終わることができそうです」
 終わりに出来るって……ちょっとあんた、簡単に言うなよ。
 「あの……。何でそんなにご自分のことを決め付けてるんですか?」
 「え?」
 「良い会社でなきゃダメとか、学歴とか……。いや、拘る気持ちはわからなくもないです。世の中には、色んな価値観がありますから。でも、いくらなんでも、死ぬほど拘らなきゃいけないことではないと思うんですが……」
 俺の言ったことに、天貝さんが、何か言い返そうと口を開きかけるが、思わぬ方から反論が飛び出た。
「岡本さんが言っていることは、確かに間違ってはいないわ。でも、それを受け入れられる人もいれば、死を考えるほどに受け入れられない人もいる。同じ事柄でも、何とも思わない人もいれば、大きなショックを受ける人もいるのよ」
 谷山さんの、相変らずの穏やかな声だった……。けれど、真っ直ぐ俺を見つめる眼差しは、敵意すら覚えるほどの気迫を感じる。
 何だよ。谷山さんは、何が何でも天貝さんに自殺続行してもらいたいのか?
 俺、少し彼女にムッとしながらも、話を続ける。
「世の中、不景気だって、その気になれば仕事は何かしらあります。家族みんなで頑張れば、充分食べていけると思います。生きていればチャンスだって巡ってくるかもしれない。何も死ぬことはないでしょう」
 俺の言葉の最後を奪うように、天貝さんが叫ぶ。
「両親や妻、子供達にとって、私は頼りになる存在じゃなければ、いても仕方ないんです!!」
 悲痛な叫び。
「……こんな無力な私は、きっと受け入れてもらえない……」
 力なく微笑む。涙ぐんでいる。
 何が天貝さんをこんなにも怯えさせるんだろうか?

『ねえ、みんなが言うのよ』

 ……まただ。こんな時に、また朋子の言葉が脳裏をかすめる。
 数ヶ月前の会話。

『どんな時でも元気で明るい私が好きなんだって』
『いいことじゃないか。』
 朋子は社交的な性格で、しかも面倒見が良いので、男女問わず人気者だったりする。
『まあね。この性格、自分でも気に入っているわ』
 朋子は勝気な笑みを浮かべて言うが、それが、フッと少しだけ寂しげになる。
『……でもね。たまに思うの』
『何を?』
『私が弱音を吐いた時、みんなは私の傍にいてくれるのかな。私が笑顔でいられなくても、私の傍にいてくれるのかな。私が、みんなの望む通りの私じゃなくなった時、それでも好きだと言ってくれるのかな……』
 この時俺は、『いるに決まってるだろ。少なくとも、俺は傍にいるから安心しろ』って当たり前のように答えた。深く考えもせず、即答した。
 朋子は、少しキョトンとし、その後ぎこちなく微笑んだ。照れ隠しの笑みにも見えたけれど……。
 馬鹿だな、俺。朋子の笑顔がぎこちなかったわけが、今になってわかった。
 疑心暗鬼。朋子は、あの頃から、俺の結婚への迷いを感じてたんじゃないか?
 信じたい気持ちと、疑ってしまう気持ち。ずっとその2つと闘ってきたんじゃないだろうか……。
 何でそんなに『結婚』なんて制度に拘る必要があるんだ?いや、頭の中じゃちゃんとわかっている。
 社会的に認められるし、何より、目に見えないはずの心の絆ってやつを、ちゃんと形にしちゃうわけなんだから、安心もできるだろう。
 でも、どうしても反発心が湧き上がる。
 そんなもんがなきゃ保てない絆なんて、なんぼのモンだよ。
 お互い好きでいる。それだけじゃダメなのかな……。
 結婚していたって、今の天貝さんのように、大変な状況なのに家族の許へ帰れない奴もいる。

 ……頭の中で、どんな言い訳をしても、たった一つ、確実にわかっていることがある。
 『俺は傍にいるから安心しろ』
 俺は朋子に、確かにそう答えた。それなのに、今世界中の誰よりも、朋子を孤独と不安な気持ちにさせているのは俺だろう。

 胸が痛むのを必死で押さえ、天貝さんに訴える。
「……受け入れてくれるかどうかなんて、言ってみなければわからないじゃないですか。あなたが傍にいることこそが幸せだと願っているかもしれないじゃないですか」
 そう思っていることは嘘ではないのに、今の俺が言っても、どこか空っぽな台詞だと思ってしまう……。それを見透かされているようで、谷山さんから反撃される。
「岡本さん。これから先、現実と闘うのも、辛い思いをするのも彼なのよ。あなたじゃないの。彼にとっての辛い選択を、あなたが強要する権利があるの?無責任に奇麗事ばかり並べないであげて。それを信じて、裏切られた時の痛みをあなたは癒してあげられないでしょう?」
「わかってるよ。そんなこと!!」
 思わず立ち上がり、叫んでしまう!天貝さんは驚き、谷山さんは、少し怪訝な顔をする。
 俺の様子が、天貝さんを説得するって感じじゃなくなっていたからだろう。
「俺だってわかってるよ!好きな女一人安心させてやれない俺が、何を言っても説得力ない!!結婚ってやつに、本気で躊躇しちまってる自分に呆れてるからな!!」
「け、結婚?」
 天貝さんは、ハトが豆鉄砲食らったような顔になる。そりゃそうだ。今まで話題のメインは天貝さんのことだったのに、俺の口から出てきたのは、何の脈絡もない『結婚』って単語なわけだから、当然だ。
 ここで我に返る。
「あ、すみません……」
 今は俺の話なんぞをしている場合じゃない。が、天貝さんが心配そうに俺を見つめる。
「一体どうしたんですか?結婚話が上手くいかないんですか?お相手のご両親に反対されているんですか?それとも……」
 矢継ぎ早の質問。こらこら、あんた俺のこと心配している場合じゃないだろ?
「俺のことは良いですって……」
「ただ単純に、彼女は好きだけれど、結婚はしたくない。それで迷っているってことなのかしら?」
 谷山さん。静かに俺の心境を言い当てる。
「……その通りです」
「彼女は結婚したいと言っているのね」
 俺は小さく頷く。
「じゃあ、答えは簡単だわ。あなたにその気がないのなら、早く別れてあげるのね」
「その気がないわけじゃない!ただ、あまりにも短時間で答えを出さなきゃいけないから、迷って当然だろう!!」
「期限があるの?」
「ええ。期限までにOKって返事が出せなきゃ、もう二度と会わないって言われて、結婚迫られたんです」
「そう」
「いきなりそんな風に結婚か別れかを突きつけられても、追い詰められるばかりで……。極端すぎると思いませんか?脅迫ですよ」
 切羽詰ってる俺とは対照的に、谷山さんは、穏やかな微笑みを浮かべる。
「岡本さんの彼女って、素敵な人ね。そして、優しい人」
「え?」
 確かに朋子は素敵な女だ。でも、この件に関しては、強引過ぎるって思っているので、谷山さんの言った「優しい」って部分に反発を覚える。
「あなたの彼女は、あなたと自分のことを守るために期限付きで答えを求めたのよ」
「守るために?」
「そうよ。もし、あなたに結婚する気がないなら、彼女を手酷く振ってあげるのね」
「そんな……。好きなことには変わりないのに……」
「お願いだから、繋ぎ止める為だけに、曖昧な優しい言葉で彼女を引き止めないでね」
 谷山さんは、ワイングラスを手に持ち、一口だけ飲んだ。
「彼女は、あなたのことをとても愛してる。一生傍にいたいと願ってやまない。きっと、随分と前からあなたとの未来を考えていたのよ。あなたから話を切り出してくれるのを待っていたのね。待っているにも限界ってあると思うわ。だからこそ、彼女は答えを求めているの。もう彼女も限界なのよ」
 俺、何も言えない。多分、谷山さんの言う通りだ。
「だから、ちゃんと答えを出してあげて。でないと、あなたからの優しい言葉や、希望を抱ける言葉を無理やりにでも探してしまう。あなたを追い求めてしまうの。いつか結婚できるかもしれないって夢を描いてしまう。あなたは、そんな彼女の想いに、いつか、確実に応えて上げられるの?」
 俺は、答えられなかった。谷山さんは小さなため息をついた。
「確かに、考える時間は必要よ。でもね、その時間が長ければ長いほど、彼女はあなたに約束を求めずにはいられなくなると思う。そして、あなたはそんな彼女に追い詰められていくと思うの」
 確かにそうだ……。誰だって、ある程度の年齢になれば、ちゃんと地に足をつけて将来のこと考える時が来る。
 ましてや、一緒になりたいと思っている相手がいるならば、なおのことだろう。
「どれくらい待っていられるかは、人それぞれだけど、待たせる方も、それなにりに覚悟してね」
「覚悟?」
「愛する人を苦しめているのよ。それを自覚しなさいねってこと。あなたも、同じだけ苦しみなさい」
 谷山さんは、まるでマリア様みたいに優しげだ。
「あなたの彼女は、あなたのことをとても大切に想っている。だからこそ、期限付きで潔く別れようと決めた。いつか、あなたを追い詰めてしまう前に答えを出そうとしているのよ。あなたの彼女は、とても優しい人よ」
 俺は、谷山さんの言葉に打ちのめされた。
 朋子が、どんな想いで今回のことを突きつけたのかを考えると、胸が張り裂けそうになる。
 俺は力なく腰を降ろした。
「……岡本さんも、色々と大変なんですね・・・…」
 今まで黙っていた天貝さんが、しみじみと語る。いや、『大変なんですね』ってあんたが語るなよ……。
 とりあえずあんたが一番とんでもないことしている状態だと思うんだけど……などと、思考が停滞しがちになりながらも俺は心の中で突っ込みを入れる。
 天貝さんは、今までと打って変わった雰囲気で、冷静な口調で、谷山さんに尋ねる。
「今さらなんですが、谷山さん。何故あなたは私に殺されることに積極的なんですか?」
 訊かれた谷山さんは、少し表情を強張らせる。そうだよな。一番不可解で納得できないことを望んでいるのは谷山さんだ。天貝さんは、後からここに加わった俺のために、わかりやすく経緯を説明してくれる。
「私は、死ぬ前にせめて何か美味しいものが食べたいと思い、ご迷惑だと思いながらも、お客様がいなかった谷山さんのお店に足を踏み入れた。包丁で脅し、何か食べさせて欲しいと訴えました。『冗談だと思うな。俺はどうせ死ぬ気なんだから、何だって出来る。お前を殺すことだって出来るんだ』と叫びました。今気が付いたんですが、あなた、あの時、とても嬉しそうでしたよね?」
 包丁を突きつけられ、命の危険に晒されているのに、嬉しそうだった谷山さん。彼女の心境って?
 俺と天貝さんは、谷山さんに注目する。

 谷山さんは、しばし沈黙した後、苦悶に満ちた顔を覗かせ、ゆっくりと目を瞑る。

「天貝さん。私もね、あなたと同じで、死にたくてたまらなかったの。でも、自ら命を絶つわけにはいかなかった」
 
 谷山さんは左手薬指の指輪を見つめ、愛しそうに……そして、寂しそうに微笑んだ。
 谷山さん、結婚しているんだ……。
「私の大切な人が、私から離れようとしているの」
 ってことは、離れようとしているのは……旦那さんってことか?
「私は、この10年、夫だけを見て生きてきた。好きで好きでたまらなかった。私にとって、夫が全てだった。無口で愛想もあまり良くないので誤解されやすいけれど、とっても優しい人なのよ。夫がいれば、私は他には何もいらない。それくらい愛していた」
 谷山さんが、旦那さんのことを語る顔は、とても穏やかだった。
 けれど、表情が曇ると共に、話も急展開する。
「でもね。夫にとって、私の愛情は負担だったみたい。『あなたが私の全て』『あなたがいるから私は幸せに生きていける』……私にとって、最高の愛情が、夫を少しずつ追い詰め、苦しめていたの……」
 真っ直ぐすぎる愛情。それは時には、注がれる者にとって重すぎるのかもしれない。
「私にとっての幸せが、夫にとっては苦痛でしかない日々に変わっていた。それに私は気が付かなかった。無理している生活は、いつか破綻する。……夫がね、辛い顔して私に言ったの。『好きな人が出来た。別れて欲しい』……って」
 げ……最悪。
「耳を疑ったわ。ありえないと思った。でも、突きつけられた事実は、夫が新しい道を選ぼうと決心していたことだった」 
 それって……浮気されたってこと?
 あ、本気なんだから、浮気じゃないか。
「私は、夫を責めた。結婚している身でありながら、他の女を愛し、妻を捨てるなんて、酷い裏切り行為だって、散々なじったわ。夫は、一言も弁解しなかった。ただ、『相手の人には自分の気持ちは一切伝えていない』って言った。事実だと思う。私とのことをハッキリさせた後、相手の女性に気持ちを伝えるって言っていた。それが、私に対しても、相手に対しても、誠意であり、礼儀だと言っていた。とても夫らしいと思う。バカよね。もしかしたら、相手の女性には恋人がいるかもしれないのに。タイプじゃないって振られるかもしれないのに。それでも、夫は私とのことを終わらせ、新たな愛を追いかけたいと願った」
 それって……浮気とか欲望に流された事実を見せつけられるより、ある意味、谷山さんにとって、とても辛い現実だ……。
「私は、あらゆる正論で夫を責めた。例え、気持ちの上だけでも、浮気は最低だ。人間として最低なことだ。けれど、責めれば責めるほど、どれも、むなしいだけだった。だって、夫はいやになるくらい直向きなんだもの。わかっているの。夫の気持ちは浮気じゃない。本気だってこと。もう私には『男と女』としての気持ちはないってこと……。そして、それでも、必死で筋を通そうとしていること……私に対し、誠実でいようとしてること……。その全てが愛しくて、そして、直向きすぎて辛かった。苦しかった。もし、子供がいれば、話は変わっていたかもしれない。もし、相手の女性が夫を振ってくれれば元に戻れるかもしれない。たくさんの『もし』を考えたけれど、夫の愛情が私には向いてないってことだけは、変わらなかった」
 認めたくない、けれど、自分じゃ変えようのない、どうしようもない現実。
「毎日が地獄だった。夫を責めたくはないのに、気が付くと責めてしまうの。夫は反論せず、受け止めていた。夫を傷つけた分だけ、私の心も血を流す。その繰り返しの毎日。そのうちに私の中で相反する気持ちが生まれたわ。これ以上夫を追い詰めたくない、解放してあげたいって気持ち。同等に、夫を離したくない、罪悪感でも良い、同情でも良い、何でも良いから私の傍にいて欲しいって気持ちと……相反する気持ちが渦巻いて、私自身も追い詰められ、限界だった。楽になりたかった。夫を解放してあげたい。けれど、もう半分の私が泣くの。夫を愛している。どんなことをしてもいいから、傍にいて欲しいって」
 谷山さんの声が切なく震える。
「心が切り刻まれるように痛くて痛くて……。疲れ果てて、それでも夫を求めてやまない。感情なんてなくなってしまえばいいのにって思ったわ。死にたかった。死んで楽になりたかった。だんだん考え方がおかしくなるの。私が自ら命を絶つことは、夫に十字架を背負わすこと。夫は優しい人だから、きっと、とても苦しむことになるでしょうね。そうすることで、私を一生忘れないのならって考えながら、自らの手首に包丁をあてて一日中座り込んでいる時もあった」
 綺麗な澄んだ声で語られる、真っ暗闇の内容。
 何だか、谷山さんの話は、ブラックホールのように真っ黒で、全てのものを引き込んでしまうくらいのパワーがあって……。俺も天貝さんも何も言えず、ただ黙って聞くことしかできなかった。
「それでもね。やっぱり出来なかったの……。夫をこれ以上苦しめたくはなかった。夫が苦しむと、私も苦しいの。おかしいわよね。夫を追い詰めているのは、他でもない私なのに、苦しいのよ。それでも、追い詰めずにはいれないの……。自分を消したくてたまらなくて……。でも、自らは死ねない。夫に十字架を背負わすことは出来ない。だから……何でも良い、誰でもいいから私を消して欲しかった。私を殺してって叫んでいた」
「そこに現れたのが、私なんですね……」
 天貝さんが、苦笑いする。複雑な心境なんだろう。
 谷山さんは、天貝さんを見つめ、透き通った笑顔を見せた。でも、こんな場面でのそんな笑顔は、悲しさばっかが倍増だ。
「天貝さんは、私にとって救いだったわ。あなたが死にたがっているのが伝わってきた。躊躇っていることもね」
「だから、一緒に死んであげるって言ったんですね」
「ええ」
「……私はあの時、谷山さんに背中を押された気がしました。あなたとなら死ぬことも怖くないと思ってしまった。恐ろしいことに、本当にあなたを切りつけようとしていた……」
 天貝さんは、自分の両手を見つめた。微かに震える右手を、左手でギュッと握る。
 ああ……天貝さんは、本当に谷山さんを傷つける気なんてなかったんだ。今の彼の様子を見ていればわかる。
 俺は、その場にいたわけではないけれど、極限に追い詰められた天貝さんに囁きかける谷山さんの姿が克明に想像できた。
 『私を殺して』『私の命をあげる』『一緒なら怖くないでしょう?』。谷山さんの言葉。
 ……天貝さんにとって、甘い甘い誘惑の言葉。谷山さんのブラックホールに、引き込まれてしまったんだ。
 柄でもないのに包丁を掲げ、谷山さんを今まさに切りつけようとしていたところで、俺が登場したんだ。
 天貝さんにとってはどうだか知らないけれど、谷山さんにとっては、邪魔者以外の何ものでもなかっただろう。
「もう少しで全て終わったのにね。岡本さんの所為で、こんなことになっちゃった」
 谷山さん、クスリと笑う。ちょっと、俺を責めてる眼差し。
 好きな人、愛する人、信じていた人が、自分から離れて行く。全てが崩れ去り、後に残されるのは孤独。
 自分ではどうすることもできない、人の心。
 朋子の期限付きの結婚請求に対し、谷山さんが『優しい人』と言った想いを実感する。
 好きな人を追い詰めていくことは、自分も追い詰めていくことなんだろう。
 辛いだろうな……。
 俺の胸がじくじくと痛む。
 俺はこの店に留まらない方が良かったのかもしれない。
 俺にどんな説得が出来る?
 何なんだ、これは。谷山さんの悲しい悲しいブラックホールに、俺も引き込まれそうになってしまう。

『私を強くしてくれるのは、私を信じていてくれている人がいるってことかな』
 また、朋子の声がした。

『私を信じてくれている人がいる限り、裏切れない。どんなに苦しくても、その人を悲しませることはできない。だから私強くなろうと思う』
 いつだっけかな。朋子が懐かしそうに言ってた。何を思って言ったのかはわかならいけれど、高校生の時の思い出らしいことは垣間見れた。とても辛いことがあったらしい。
 誰を思い出して言った言葉なのかもわからないけれど……印象に残ってる。

 朋子は俺のことを信じているんだろうか?
 
「もう少しで楽になれたのに」
 谷山さんのポツリと洩らした言葉に、俺は、何だか無性に腹が立った。
 悲しくてやるせなくて、めちゃくちゃ腹が立ってきた。
 誰に対してなのか、何に対してなのかはわからないけれど、悲しくて、腹が立つ。
 俺は、重い口を開き、言葉を搾り出す。
「谷山さん……あなた自分が何をしようとしたかわかってるんですか?」
「え?」
「あなたは、天貝さんにとんでもないことしようとしていたんですよ……」
 自分の気持ちを話すって、こんなに疲れることだったっけか?
 多分、谷山さんの暗闇と闘いながら話している所為だろう。
「あなたは、旦那さんに十字架を背負わせたくないと言った。でも、あなたがしようとしたことは、全く関係ない、天貝さんと、天貝さんの大切な家族に十字架を背負わせることだ……」
 谷山さんはハッとしたように目を見開く。この人は、そんな当たり前のことさえ見えなくなってたのか?
 俺は、ため息を付いた後、天貝さんの顔を見る。
「天貝さん。あんたもあんただ。あんたは大切な家族に、辛い思いをさせるつもりですか?見ず知らずの人の命を奪い、挙句にあなた自身も死んでしまったら、ご家族は一生辛い悲しみを抱えて生きていくでしょうね」
 俺が言い終えた後は、ただひたすらの沈黙。谷山さんは力なく肩を落とし、天貝さんは、すっかり冷静さを取り戻したようで、テーブルの上のワイングラスをひたすらに見つめていた。
 俺は、のろのろと顔を上げ、壁にかけられた時計を見る。午後10時49分。随分時間が経っちまったな。
 タイムリミットまで1時間ちょっとか……。
 こんな時なのに、何でだろうな。少し笑いたくなる。
 俺はこの状況の中、何回朋子の言葉を思い出した?そのたびに、ギリギリのところで踏ん張れている。
「朋子は強いからな……。朋子の言葉にはパワーがあるから……」
 時に尻込みさせられるほどのパワー。
 俺がポツリと洩らした独り言に、天貝さんが顔を上げる。
「……岡本さんのお相手、朋子さんって言うんですか?」
 遠慮がちに訊ねられた。俺はコクンと頷く。
「良いお名前ですね。プロポーズのお返事の期限っていつなんですか?」
「今夜の12時です」
 素直に答えると、返ってきた反応は……。
 天貝さんと谷山さん、一瞬顔を見合わせ、その後、俺の方を見る。そして……。
「今日の12時って……。あと1時間じゃないですかーーーーー!!!」
 二人同時に叫ぶ。
「え、ええ。そうですけど」
 天貝さんが、俺の許へ駆け寄り、いきなり土下座する。
「すみません!!」
「へ?」
「大変な時にあなたを巻き込んでしまって、すみません!!」
 天貝さんの土下座の迫力は凄かった。その勢いのまま、ガバッ顔を上げる。
「は、早く彼女のトコへ行ってください!!ここから彼女の家まではどれくらいなんですか?」
「電車で50分くらいです」
「じ、時間がないじゃないですか!!彼女が待っていますよ!!私たちのことに構わず、早く行って下さい!!ささ、早く!」
「いや、早くって言われても……。まだ答えが出てないし」
「何をのろのろしているの!」
 今度は谷山さんが俺に駆け寄る。
「彼女に逢えなくなってもいいの?何でもっと良く考えないのよ!」
「いえ、だから、考えをまとめようと思って、この喫茶店に入ったわけで……」
「ああ!!やっぱり私の所為だ!!私が考える時間を奪ってしまった!あなたと朋子さんが別れてしまうようなことになったら、私は何て言ってお詫びをしたらいいのか!!」
 天貝さん、頭を抱える。そして、今度は俺の胸倉を掴んで迫る。
「今、考えてください!!早く、早く!!」
 天貝さんってば!あんたが俺にすがり付いてどうする!!
「そんなにせっつかれても、答えなんてすぐに出ないですよ!!一生の問題だし……」
 俺がそう言うと、天貝さんと、谷山さんがフッと表情を和らげ、柔和な笑みを浮かべる。
 今まで大騒ぎしていたのに、その場の空気が静まり、俺の心も妙に凪いで行く。
「……私や谷山さんがこんなこと言っても、全然説得力ないことこの上ないんですがね……」
 天貝さんが、少し照れ臭そうに言い、その言葉の続きを、谷山さんが引き継ぐ。
「結婚って、なかなか良いものよ。永遠なんてものはどこにもないけれど、一瞬でも、一緒に生きて生きたい、守って行きたいって思える人が現れたことって、凄いことよ」
 そう言った時の、谷山さんは、とても幸せそうで、綺麗な笑顔だった。
 本当に、とても綺麗で……。
 俺は、朋子をそんな笑顔にしてあげられるのだろうか……?
 いや、朋子がどうとかではなく、俺が朋子に笑顔になってもらいたいと思う。
 心の中で、答えが形作られようとした時、地面が揺れた。思わずよろけてしまうほどの揺れだった。
 テーブルからワイングラスが転がり落ちる。
 地震!?
 天貝さんは、思わずって感じでテーブルの下に隠れ、谷山さんは、慌ててガスの元栓を締めに走り、そのまま頭を抱えに床に伏せる。俺はと言うと、テーブルに手を付いて辺りを見渡す。
 花が描かれていた絵の額縁が壁から落ちる。戸棚からも皿が何枚か落ちた。
 やがて少しずつ揺れは収まり、静かになった。
 震度どれくらいだろう。5くらいだろうか?この店の被害はワイングラスとお皿が数枚。それと割れた額縁。
「……大きい地震でしたね」
 俺が言うと、谷山さんが恐る恐るって感じで身体を起こした。天貝さんもテーブルの下から這い出てくる。
「……大きな地震に感じたけれど、この建物、古いから普通より余計に揺れるのよ。案外震度は3とか4くらいかも……」
 谷山さんが脱力仕切った声音で言い、言い終えた後、クスクスと笑い出した。
 それにつられるように、天貝さんも笑い出す。
 何がおかしいんだ?俺一人、わけがわからず戸惑う。
「ダメだわ。・・・・おかしくて笑っちゃう」
 谷山さんが涙目になりながら、笑いの合間に言う。
「本当ですね。私も自分に笑っちゃいます」
 天貝さんも、笑いで息苦しくなりながら、コメントする。
 いったいどうしちゃったんだ?二人とも。笑っていると言っても、愉快な笑いではなく、感情を放り投げ、自分を嘲る笑いに見えた。
 事態を飲み込めていない俺の視線に、天貝さんが気が付く。
「だって、可笑しいでしょう?私も谷山さんも、あれほど死にたいって言っていたくせに、今、地震から身を守ろうとしたんです」
「あ……」
 そう言えば、そうだ。
 谷山さんが、散々笑った後、大きく息を吐く。
「どうにもね、今夜私と天貝さん、そして岡本さんが出会ったことで、風向きが変わっちゃったのかな」
「風向き?」
「どんな場合でも、タイミングがあるってことなのかしらね。人の心も未来も、その都度サイコロを転がすようにコロコロ結果が変わる」
 ……ってことは……。風向きは、いい方に変わったってことなのか?
 俺が期待に満ちた眼差しでいると、谷山さんも天貝さんも、観念したように頷く。
「少なくとも、今夜は生きてみたくなってるってことよね」
「反射的に取った行動が、何より素直な自分なんでしょうからね」
 天貝さんが苦笑いする。
「それにしても、震度はどれくらいだったのかしら」
 谷山さんが、立ち上がり、店の隅にあったテレビをつける。ドラマの途中だったらしいが、速報で地震情報のテロップが表示される。
 それを見ながら、あることを思い出す。

『私、雷と地震だけは、とても苦手で……』
 いつも冷静で怖いものなんてないって感じの朋子が、泣きそうな顔で言ったことがある。
 ドライブ中、酷い天候になって雷が鳴った時のことだ。あの時、本当に涙ぐんでいた。
 今の地震、朋子は大丈夫だっただろうか。部屋の片隅で、たった一人で震えているとしたら……。

 俺の中で、一気に沸きあがった想い。
 俺はコートのポケットから携帯を取り出し、朋子の携帯にかける。が、朋子のやつ、電源を切っていた。
 だったら、自宅の電話だ!
 自宅の電話へもかけるが……おいおい、何コール鳴らしても出ない。留守電もセットしてない!!
 あいつ、電話での答えは認めない姿勢らしい!!朋子らしいが、今は正直勘弁してくれって思ってしまう。
 携帯の時刻は午後11時を15分ほど過ぎていた。
 俺の様子に、谷山さんと天貝さんも気が付く。
「岡本さん!!彼女のところに行かないと!もう答えは出たんでしょう?」
 俺は携帯をポケットにしまい、答える。
「はい」
 軽く頭を下げ、鞄を持って、ドアに向って走り出す。
「あ。待って!!」
 谷山さんに呼び止められ、足を止め、振り返る。
 谷山さんは、テーブルの上に置かれていた一輪挿しから、活けられていた一本の赤い薔薇を取り出し、店の隅にあった新聞紙でくるむ。そして、冷蔵庫から小さなショートケーキを取り出し、銀紙でくるんでくれた。
 それを小ささな紙袋に入れ、俺に差し出した。
「こんなんじゃ、彼女むくれちゃうかもしれないけど、何もないよりマシよね」
 そうだ……。俺、シャンパンもケーキもプレゼントも買ってなかった。
「……ありがとうございます」
 俺が礼を言うと、谷山さんは静かに首を横に振る。
「私の方こそ、あなたと今夜逢えたこと、感謝する日がいつか来ると思う。ありがとう」
 谷山さんのすぐ後で、天貝さんも何度も頷きながら「ありがとうございます」って言った。
「……俺もきっと、今日出会えたことを感謝する日がくるような気がします」
 俺は思い切り明るい笑顔で宣言する。
「俺たちがどうなったのか、二人に報告しにきます。必ず来ますから、楽しみにしてて下さいね」
 だから頑張って下さい、どうか俺に報告させて下さいねって気持ちを込めて言った。
 天貝さんも谷山さんも、俺の気持ちを察してくれた。
「楽しみにしているわ」
「私も、結果を聞きにこの喫茶店に来ますね」
 これは、少なくとも、二人が俺の結果を知るまでは頑張ってくれるって約束だ。
 二人の気持ちが、どう変わったのかはわからない。この店を出て、また一人で現実と向き会った時、同じ気持ちに逆戻りするかもしれない。でも、人との約束って、時に命綱になってくれたりもすると思う。
 それが、どんなに小さな約束でも。それが、例えば通りすがりのやつとした約束だったとしても……。

「じゃ、行きます」
 俺はドアの鍵を開け、外に飛び出す。
 後ろから、谷山さんが「良いクリスマスを過ごして下さいね!」って叫んでいた。

 街のクリスマスムードは変わっておらず、先ほどの地震はそれほど大きくはなかったことを知る。
 酔って浮かれている学生や、サラリーマン達。身を寄せ合って歩く恋人達。
 その人波をすり抜け走る。
 今からじゃ電車では間に合わない。もしかしたら地震の影響でダイヤも乱れているかもしれないし。
 俺は迷わずタクシーを止めて乗り込む。
 幸運なことに、道は比較的空いていた。
 腕時計を見る。イブが終わるまで、あと30分ほどだ。
 頼む。間に合ってくれ!
 窓に頭を預け、祈るように目を閉じる。
 時折揺れる車内と、自分の心音を感じる。
 少し興奮しているのかもしれない。
 仕方ないよな。色んなことあったし、これからもう一仕事するんだから。
 今さらながら、天貝さんに包丁を向けられた時の恐怖を実感している。
 本当に殺されると思った。
 初めて直面した、死の恐怖。
 そして、天貝さんと谷山さんが背負っている現実。

 俺の未来にどんなことが待ち受けているのかはわからない。
 自分なりの夢はあるけれど、未来は自分だけで決められるものではないから。
 谷山さんが言った通り、未来なんてサイコロ転がすように、どんどん結果が変わっていくんだろう。この瞬間もきっとそうなんだ。
 ただ、一つだけ、今、どうしても譲れないことがある。
 それが朋子に逢いに行こうとしている最大の理由だな。
 タイムリミット2分前に、朋子のマンションに到着する。
 エレベーターが最上階で止まっており、俺は階段を駆け上る。
 朋子の部屋は3階。一番奥の部屋。
 息を切らし3階に到着し、廊下を走る。
 イブが終わる10秒前に、朋子の部屋のインターフォンを鳴らすことが出来た。
 そして、ジャスト12時に、ドアが静かに開いた。
 少し疲れた表情の朋子が顔を出す。
 俺は谷山さんが用意してくれた薔薇とケーキを差し出し、気持ちを伝えた。

「俺は……。俺が死んだ時、傍にいるのはお前が良い!お前が死んだ時も誰にも邪魔されず俺が傍にいたい!どんな時でも、どんなことでも、お前のことは俺が一番最初に知りたい。俺に何かあった時も、お前に一番先に知ってもらいたい。俺の葬式は朋子以外の喪主は認めない。誰にも文句言われずに、一番に傍にいる権利が欲しいんだ!!」
 思いつくままの言葉。そして頭を下げ……。
「結婚してください!」
 無我夢中のプロポーズだった。
 しばらく経っても、何の反応もなかったので、恐る恐る顔を上げる。
 そこには、少し呆れたように、それでも優しい笑顔の朋子がいた。
「……死んだ時とか、喪主とかって……随分不吉なプロポーズよね」
 朋子はため息混じりに呟き、ジロッと俺を睨む。
「遅かったじゃない」
「ごめん。色々あって……」
「色々って?」
「話すと長くなるんだけど……」
 部屋には入れてもらえないんだろうか?それより、プロポーズの返事は……?
 タイムリミットギリギリじゃ、ダメだっただろうか?
 俺が不安げにしていると、朋子が体をずらし、部屋の中に招いてくれた。
「料理温めなおさなきゃ。あんまり遅いから、全部冷めちゃった」
「ごめん」
「いいから、入って」
 お許しが出たので、感謝しつつ部屋に入る。
 部屋に入ると、テーブルの上に、朋子の手作りの豪華な料理が出迎えてくれた。
 ふと、背中が温かくなる。
 朋子が俺の背中に身を寄せてきたからだ。
「……なあ、俺が来なかったら、本当に別れるつもりだったのか?」
「当然。二度と逢う気はなかった」
「何でそんなに潔いんだ?」
「前に、言ったこと、あるよね。私、大祐が選ぶ選択が好きだって」
「ああ……」
「だからこそ、私は去るしかないじゃない。私は大祐に選ばれなかった……それを受け止めて、去るしかないじゃない」

 最後の方は涙声で、俺はたまらずに、朋子を思い切り抱き締めた。

 その晩俺は、朋子の温もりを感じながら、天貝さんのこと、谷山さんのこと、そして俺のことを一つ一つ話していた。
 朋子は最後まで黙って聞いていてくれた。そして、聞き終えて、幸せそうに微笑む。
「さすが私の大祐。ギリギリのところで逃げずに闘ってきたのね。偉い偉い」
 誇らしげな台詞だけど……ちょっと不安になったので訊いてみた。
「じゃあ、俺がもし逃げてお前の許へきていたら、恋も冷めてたか?」
 俺は、そんなに毎回は頑張れないかもしれないし……。
 すると朋子はあっけらかんと笑った。
「さすが私の大祐。私のために無事に戻ってきてくれたのね!って言うわね」
「それって……」
 朋子は俺の言葉を遮り、軽くキスをくれた。そして、耳元で囁く。
「あなたのことが好きってことよ」

(後日談)
 俺が店を出て行った後、谷山さんは、なかなか大変だったらしい。
 警察に『殺人未遂』で自首すると言いはる天貝さん。そんな事実は絶対認めないと譲らない谷山さん。
 もう一人の関係者である俺の連絡先などは一切わからず……なので、谷山さんが事件そのものを認めない限り天貝さんが自首しても、肝心の事件そのものが存在しないわけで……。
 天貝さんが、ようやく諦めた時には、もう夜明け近かったらしい。
 もちろん、俺も警察に通報するなんて、これっぽっちも、発想すらしておらず……。
 俺も、多分谷山さんもだろうけど、天貝さんがどうしても罪を償いたいと言うのならば、生きるってことで勘弁してやろうと思う。
 俺と朋子の結婚式の招待状を届けに、谷山さんの喫茶店に向いながら、そんなことを考えていた。

2003.12.22 END

あなたが幸せな時、そして悲しみの時
一番傍にいて欲しい人と過ごせていることを願っています
メリークリスマス♪
くりん


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