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目撃者(終)

「おじちゃん…おか…おかあさんのこと、たすけてくれる?」

 泣いているので時折言葉を詰まらせながら絵美が言った。

「絵美ちゃん…。」
「えみ、おかあさんがすき…だから、おかあさん、わらってなきゃ、やだ。…おかあさん、ないてるの、やだ。」

 絵美が母親に対しての気持ちを必死に訴えている姿を見ているうち、啓太は不思議な温かさが
自分の体を包みこんでいくのを感じた。

 とても優しい、懐かしい温かさだった。

『お兄ちゃん。』

<…加奈?>

 ふいに耳に飛び込んできた、声。聞きたいと思っても永遠に失われてしまったと思っていた加奈の声。

「おかあさん…。」
『お兄ちゃん…。』

 絵美と加奈の声が重なって聞こえた。

「おかあさん…。だいすき…。」
『お兄ちゃん…。大好きな、お兄ちゃん。』


<加奈…>
 啓太は加奈の姿を探し、辺りに視線を泳がせるが、あるのは生い茂る木々の風景だけだ。

 それでも加奈の言葉は啓太の心に流れ込む。

『お兄ちゃん…もうやめて。』
「加奈!どこにいるんだ?」

 啓太は空に向かって叫んだ。

『このままじゃ、お兄ちゃん、いつか死を選んじゃう。』
「加奈。」
『お願いお兄ちゃん。…生きて。』

 加奈の声は、優しさに満ちていた。

 啓太は苦笑いして、その後、今にも泣いてしまいそうな苦痛の表情を浮かべ、言葉を搾り出した。

「お前のところに行きたいよ…。」

 現実から逃げ出したかった。追い詰められ、心も体もボロボロだった。

<もう、疲れた…>

 そんな啓太を守るように、加奈の柔らかな温かさが辺りに満ち溢れる。

『…一緒にいるっていう約束破ってごめんね。』

 啓太はゆっくり首を横にふり、小さな声で言った。

「俺こそ、何も気が付いてやれなくて…守ってやれなくてごめん。」
『お兄ちゃんはいつも優しかった。私、お兄ちゃんを守りたかったの。幸せになってもらいたかった。』

 たった一つ、願いはそれだけだった。でも、啓太だって加奈の幸せを願っていた。

『お兄ちゃんには誰よりも、幸せになって欲しかった…。』

 加奈の願いを、啓太は自ら壊してしまった。

「ごめん。加奈…ごめん…。」
『お兄ちゃん。お願い、生き続けて…。』
「加奈…。」
『生きて。』
「どう生きろっていうんだよ!」
 啓太は目を固く瞑り叫んだ。

<怖くて、辛くて、これ以上耐えられない>

『お兄ちゃん…。』

 加奈の切ない願いを込めた声がとても辛くて、手で耳を塞いだ。

 身を縮めて、震えながら座り込んでいる啓太の頬に優しく触れる…小さな手。

 目を閉じていてもわかる、絵美の手だ…。

 幽霊の手なので感じることはできないはずなのに、とても優しく温かい手が頬を触れたような気がしたのだ。

 そっと目を明けると、絵美が立っていた。泣き過ぎて赤く晴らした瞳に、啓太を映していた。

「おじちゃん。」
「絵美…ちゃん。」

 絵美はもう、泣いてはいなかった。優しく微笑みながら小さな右手を啓太の前に差し出した。そして、
小指だけ立てた。

「おかあさんのこと、たすけてね。やくそくだよ。」
「…約束?」

 啓太は絵美の顔を見た。絵美はコクンと頷いて、言葉を続けた。

「おかあさんが、ごめんなさいっていえるように、おじちゃんがたすけてね。やくそくしてくれたら、
ここからだしてあげる…。だからゆびきりげんまん…。」

 絵美の目は真剣だった。母親に対しての全ての愛情を、この約束に込めているのが啓太には痛いほど
感じられた。

 母親の幸せだけをひたすら願う、絵美の心。

 指切りをするために差し出された絵美の小指。

 啓太は震える右手を、左手で支えながら絵美の小指へと近づけた。

 この約束は、まるで加奈が啓太に望んでいるように感じられた。

『生きて…。』

 加奈の言葉を思い出しながら、啓太は絵美の小指に自分の小指を絡めた。実際はすり抜けないように
お互いの小指を重ねていただけだったが、今の絵美と啓太には、ちゃんとお互いの意思が伝わっていた。
大好きな人への、大切な想いを託す絵美の心と、その重さを感じ、託される啓太。

 絵美がリズム良く、指きりの言葉を口にする。

「ゆびきりげんまん。ウソついたら…ダメだよ、おじちゃん。」

 最後の言葉を言った時の絵美は、完全に啓太を信じきった、笑顔だった。

 啓太は、涙が零れそうになるのを堪え、頷いた。それを見た絵美は、ホッとしたように肩の力を抜いて、
笑った。

「これでおかあさんは、もうだいじょうぶだね。またわらってくれるね…。しあわせになってくれるね。」

 その声はとても晴れやかで…啓太の目に涙が溢れる。絵美の言葉は、加奈の言葉と重なって啓太の
心に流れ込む。

 絵美の体を光が包み込み、やがて幸せな笑顔と共に消えて行った。

 最後に、「とじこめてごめんね、おじちゃん。…ありがとう。」という声が聞こえた。

 絵美の姿は消え、静まり返った林の中に、啓太だけが取り残された。

 絵美はこの世を去り、もう苦しまずにすむ世界の住人になった。そして、加奈も…。

 啓太は小指を見つめ…微笑んだ。
<やっかいな約束をしちゃったな…>

 今、啓太は2人分の想いを抱えている。
 絵美の想いと、加奈の想い。

<加奈…>
 自分の犯した罪の重さ。正志への怒りと憎しみ。そして加奈への愛情と、加奈を失った悲しみ。友里への
憎しみと、友里に自分がしてしまった残酷な仕打ちに対する懺悔の気持ち。啓太はその全てを抱えたまま
生きていく。

<もう、逃げることはできないよな…>
 クスっと笑い…でも、その笑顔はすぐに崩れ、代わりに瞳から、涙が零れ落ちた。


 絵美も絵美の母親も、加奈も友里も…そして啓太も、大切な人や愛した人を守りたかった。愛し、愛され
たかった。幸せになって欲しかった。…幸せになりたかった。みんなそれぞれに、そう願ってきたはずなのに。

<何でこんなことになっちゃったんだろうな…>
 啓太は絵美の埋められている地面の土を握り締め、泣き続けた。

 この場所で、絵美と啓太が出会ったのは偶然だったのか…それとも加奈が啓太を救うために導いたのか。
絵美は啓太に想いを託したことで安らかな眠りにつき、啓太は自分のやるべきことをはっきりと自覚した。







 日が傾き始めた夕方、仕事帰りなのだろうか…荷台にたくさんの耕具を乗せた軽トラックが国道を走っていた。
しわで目が隠れてしまっている初老の男性が運転手だ。

<おや?>

 前方に、ゆっくりと歩く男性の後姿を見つけ、首を傾げる。

<こんな山道、徒歩で歩いているのか?>

 速度を落とし、男の横をのろのろと通り過ぎる瞬間、その姿を目で確認した。


<何じゃ…何かあったのかな?>

 まだ若いスーツ姿の男だったが、服は泥で汚れてて、足取りも力ないものだった。車が故障にでもあい、
山道をさ迷っているのかもしれないと思った。

 老人は車を止め、窓を開け顔を出した。

「おーい。どうしたんじゃ?困っているようなら乗せていくぞ。」
 老人の声に反応し、男は顔を上げた。男は少しの間考えて、口を開いた。

「ここから一番近い町の警察署…交番でもいいんですが、そこまで乗せてもらっていいですか?」
「いいよ、乗ってきな。」
 老人は笑顔でそう答えた。


 助手席に男を乗せ、車は山道を走る。老人はごく自然な質問を男に投げかけた。

「いったいどうしたんじゃ?その格好、遭難でもしていたようじゃな。」
「車のガソリンがなくなっちゃって山の中、ずっと歩いていたんです。乗せていただけて助かりました。」
 男は、肩をすぼめ、ちょっと疲れたような笑いを浮かべて言った。

「交番には何の用なんじゃ?」
「自首しようと思って。」

 男はサラリと言った。

 老人は目をまあるくして男の顔を見つめ、その後、ふぉふぉふぉっと、愉快そうに笑った。

「なーに、冗談言っとるんじゃ。お前さんが逃亡中の犯罪者?とてもじゃないがそんな風には
見えん。わしゃ人を見る目だけはあるんじゃ。」
「本当のことなんだけどなー。ニュースで俺の顔見たことないですか?」

 男は困ったような笑いを浮かべ、右手の人差し指で頬をかいた。

「わしゃ、あまりテレビは好かんのじゃ。」
「なるほど。」

 男の言うことなど頭から信じていないようで、老人は細い目を更に細くし、笑顔のまま運転している。

 男は小さなため息をついて、その後、とても澄んだ笑顔を老人に向けた。

「あと、小さな女の子と約束したんです。」
「約束?」
「はい…。」
 男は窓に目を向け、通り過ぎる風景を見つめた。

「これからその約束を果たさなければいけないんです。」

 2つの殺人事件。一方では犯罪者として。もう一方では目撃者として…。

 男を乗せた車は、もうすぐ彼が望む場所へと到着する…。

END 2002.4.14



終わった…。いかがでしたか?しかし難しかったなー…。