健志は当時に思いを馳せながら語る。

『誰かに心を明け渡してしまうのがとても怖いの』
 紗枝は震える声で言った。

『人を愛したいのに、心を開くのがとても怖いのよ』
 紗枝の瞳から涙が零れ落ち、蓋をしていた悲しみが溢れて出る。

 紗枝と彼とは学生時代からの付き合いだった。
 紗枝が初めて愛した男だ。

『彼の傍にいると、心から笑えたわ。色々な感情が心の中いっぱいに羽根広げて飛び回るの。喜びも悲しみも彼と一緒に感じて生きていきたいと思っていた。大切な人だったわ』
 お互いに惹かれ合い、幸せな日々がずっと続いていくと思っていた。自然と家族になれるものだと信じて疑わなかった。

『彼の両親から結婚を反対されたの』
 男はかなり裕福な家庭で生まれ育った。
 一方、紗枝の実家は平凡なサラリーマン家庭。
 恋人時代、育ってきた環境の差を感じて少々尻込みはしたが、二人の未来への障害になるとは思っていなかった。
 けれど、現実は思っていたより厳しいものだった。

『もし私と結婚するならば、彼を勘当するとまで言われたわ。本気で親子の縁を切ると言われ、彼はそれでも私との未来を選ぼうとしてくれたの。でも、その時の彼、とても辛そうだったのよ。疲れきった寂しげな瞳で笑うのよ……』
 男は親の営んでいる会社で働いていて、順当に行けば将来は人の上に立つ地位を手に入れる。男は責任と遣り甲斐のある仕事に打ち込んでいて、誇りを持っていた。

『私のために、彼から家族を奪い、仕事と将来の夢も奪うと思うと、辛くて悲しくて』
 いつしか紗枝は男の前で笑顔でいられなくなり、男も紗枝を泣き顔ばかりにさせる自分を責め始める。
 お互いを想い過ぎて上手くいかない日々が続き、やがて別れを決めた。

 ここまで聞いて、範子はため息混じりに言った。
「そういう別れは、憎しみ合っての別れよりも、ある意味辛いのかもしれませんね。お互いを想いやって身を引いたのでしょうから」
「そうなんでしょうね」
「でも、彼女はあなたの気持ちを受け入れたのでしょう?」
「ええ」
 今も一言一句覚えている紗枝の言葉。

『こんな私で良いの?他の男のことで涙を見せているような女で構わないの?』
 紗枝は縋るような眼差しで健志を見ていた。
 もう一度、誰かに思い切り愛されたい、愛したい。誰かに思い切り甘えたい……。
 でも、全てを失った時の孤独を知っているから、怖くて足が竦んでいる子犬のように怯えていた。
 自分が答えた言葉も覚えている。

『そのままの紗枝が好きなんだ。泣き顔のままでも良いよ。そのままで僕の傍にいて欲しい』

「紗枝が僕の許へ来てくれた時、世界一の幸せ者だと思いました」
 健志は力なく微笑む。
「僕は彼女の心の傷も、壊れてしまった彼との未来もひっくるめて、受け止められると思っていたんです……」
 健志の途切れた言葉を、範子が続ける。
「でも、受け止めるには重過ぎたのかしら?」
「いえ。受け止めるも何も、彼女は何もかも一人で背負ってしまっています。昔の傷どころか、新たに僕に対して『良い妻になろう、気持ちに報いよう』って重石まで背負って毎日頑張っています」
 皮肉めいた言い様に、健志は自分で笑ってしまう。
「僕は彼女を愛しています。昔も今も変わらずに愛しています。そして、紗枝は昔も今も変わらずに、僕のことを愛そうと努力してくれています」
「愛そうとする努力……とても寂しいことをおっしゃるのね」
 範子の瞳が、小さな小石を投げ入れた水面のように揺らいだ。
「僕と彼女、喧嘩一つしたことがないんです」
 健志は薄く笑った後、淡々と紗枝との日常の話をする。

 一年ほどの交際期間を経て、周りから祝福を受けて結婚した二人。
 結婚生活も、互いの性格を表すように穏やかにスタートを切った。
 何事もなく平和に過ぎていく毎日。
 数ヶ月経ったある日、2人で公園を散歩している時に鬼ごっこをしている子供達に出会う。思い切り笑っている子や、大声で泣いている子、興奮気味に地面を飛び跳ねる子、みんな感情豊かに思うがまま振舞っていた。
『子供ってパワーがあるよな』
 健志は何の気なしに言った。
 紗枝は懐かしそうに子供達を目で追っていた。
『ワクワクすることもドキドキすることも、子供の時の方が多かったような気がするわ』
『大人には大人のトキメキもあると思うけど?』
『そうね。でも、心穏やかに過ごせる方が私は良いわ』
『それも幸せなことだもんな』
 その時はさして気にも留めない会話だった。安らぎを感じて生活できるなら、一番幸せなことだと素直に受け取った言葉だ。
 けれど、結婚生活が続く中で、健志は徐々に気がついていく。
 健志は告白の時以来、紗枝の感情が激しく動いたのを、一度も見たことがなかった。
 安らぎとは何かが違う静けさに、漠然とした寂しさを感じるようになり、やがて紗枝が毎日見せる微笑みも、表面上のものだと感じ始める。
 思い切り笑うことも、泣くこともない生活。それを穏やかな生活と言うならば、確かにその通りだが、少しずつ紗枝の心の裏を感じるようになる。
 もくもくと完璧に家事をこなす紗枝。
 誰かのために作る料理。誰かのために洗濯し、アイロンをかける。誰かのために布団を干して、誰かの帰りを待って部屋の明かりを灯す。休日には誰かと散歩しながら会話して、誰かに求められて抱かれて眠る。
 紗枝はそれをするのが『幸せな夫婦』なんだと信じ、一番肝心なことを置き去りにして、誰かに尽くしていた。
 紗枝の微笑みは健志を素通りして、『幸せな夫婦』と言う偽りの夢に向けられていた。
 良い妻を演じていれば、いつか『幸せな夫婦』になれると祈るように信じていた。
 真面目で不器用な紗枝には、そうすることでしか自分の気持ちを誤魔化せなかった。
 紗枝は、健志を愛していない自分への罪悪感から目を背けるには、そうするしかなかったのだ。
 冷たい粉雪が降り積もるように、静かに静かに埋もれていく紗枝の心。
 健志は真実を感じていても、紗枝との生活を続けるためには、共演者として演じ続けるしかなかった。

 二人ともちゃんとわかっていたのだ。
 演技をやめれば、後に残されるのは、気持ちの向かい合っていない男と女。

「彼女の喜びも悲しみも、僕と共にはなかったんです。当たり前ですよね、彼女は僕を愛していないんですから」
 健志は茶化すように言い、目を伏せる。
「最初は愛せると思ったんでしょうね。だから僕の許へ来てくれたんだと思います。けれど、人の気持ちは努力でどうこうなるものではないから……。好意は持っていても、それは昔と同じ、友人レベルの情だったんですよね」
 今まで認めたくなかったことを言葉にしてみると、現実として実感する。
「僕らは形だけの夫婦だったんです」
「夫婦といっても、色々な形がありますわ。愛情だけで成り立っている夫婦もいれば、計算だけで成り立っている夫婦もいます。形など当人同士で決めればいいんです。ましてや他人同士が家族になるわけですから、どこの家庭でも夫婦でい続ける努力や、歩みよりは必要ですわよ」
『あなた方夫婦が特別なわけではない。だからそんなに思いつめないで』と範子は言っているようだ。
 そんなことは健志にもわかっていた。
「もし僕が安定した生活ということだけを考えて彼女といるならば、今の生活を続けて行くことが出来るでしょうね。実際思い込んでみようともしました。でも、無駄な努力でした」
「彼女のこと愛しすぎて、傍にいるのが辛いのね?」
「辛いですよ。僕を愛することに努力なんてして欲しくない」
「どんな形であれ、相手を想い努力し続けることも、愛情の一つですわよ」
「その頑ななまでの一生懸命さが、胸に突き刺さるんです」
 相手のことを想えば想うほど、心が触れ合えない孤独を突きつけられる。傍にいればいるほど、目に見えない壁を感じ取ってしまう。
 範子は少しだけ呆れたように笑う。
「あなたも彼女も真面目すぎますわ。おまけに頑固そうですし、似た者同士でいらっしゃるのね」
「確かに僕らは融通が利かないのかもしれませんね」

 紗枝は誰が見ても申し分ない妻だ。本当によく健志に尽くしていた。明るい家庭を必死で作ろうとしている紗枝の姿を、健志はずっと見てきた。
 けれど、健志が望んだのは、そんな紗枝の姿じゃない。
 ありのままに笑い、ありのままに泣く彼女でいて欲しかった。紗枝の全てを受け止めて、彼女と共に未来を築いて行きたかった。

「彼女は必死で僕だけを見ようとしてきました。そうすればするほど、僕には伝わってくるんです」
「何を感じていらっしゃるの?」
「きっと彼女は過去に忘れ物をしてきているんですよ。心の中に昔の彼がいるのは構わないんです。誰だって思い出の分だけ、忘れられない人がいるわけですから。けれど彼女の場合は違います。今も心が彼の許にある……そう感じるんです。彼への気持ちから目を逸らすために、僕へ全てを注いでいます。そうしなければいけないとでも言わんばかりにね。そのことをずっと前から気がついていたのに、僕は見て見ぬ振りをしてきました」
 健志は膝に置いた手で、無意識に拳を作る。
「先日、僕の前に彼が現れたんです」
 範子は話の展開に少し驚きを見せた。
「何故ですか?」
「『彼女を下さい』と面と向って言われました。『勝手なのは承知しています。けれど、私は彼女を愛しています。どうか彼女を自由にしてやって下さい』と、放っておくと土下座までするような勢いでした」
「彼はあなたと会う前に、彼女とは連絡を取ろうとはなさらなかったの?」
「一度電話で話したそうですが、断られたそうです」
 範子は躊躇いつつも訊いた。
「……彼女は何と言って断ったのか、お訊きになりましたの?」
「ええ」
 僕は苦笑いする。
「『夫を裏切ることは出来ません』とだけ言ったそうです」
「そう……」
 範子は歯切れの悪い相槌を打つ。
 紗枝を現在の生活に引き止めているのは、『愛』でもなく、『幸せ』でもなく、『安定』でもない。
 健志への強い責任感……それだけだ。
 紗枝の言葉は健志の想像通りだったが、聞かなければ良かった、知らなければ良かったと後悔した。
「彼は彼女と別れた後、ずっと努力してきたようです。誰にも何も言わせないくらいの力をつけて彼女を迎えに来たそうです。事実、男の僕から見ても、とても良い男でしたよ」
「勇ましくなって帰ってらっしゃったのは良いけれど、肝心の彼女はあなたと結婚していたのですものね。あなたは何と応えたのかしら?」
「紗枝が断ったのなら、それが彼女の気持ちでしょう。彼女がそう言う以上、僕も家庭を壊す気はありません、って言いました」
「あら、キッパリと男らしくお断りになったのですね」
「内心は、恐れてたことが現実になったことに動揺して、立っているのがやっとだったんですけどね」
 紗枝の叶えられなかった夢が、彼女がちょっと手を伸ばせば届く現実となって現れたわけだ。演じることしか出来なかった健志に、動揺するなと言う方が無理だろう。

 健志も範子もしばらく無言のままで、夜風に揺れる木の葉の音だけが二人を包む。
 健志は、波打つ葉を見ながらポツリと言った。
「あの日僕らに足りなかったのは、お互いを思いやることじゃなくて、自分を信じることでした」
 範子は軽く首を傾け、仕草と眼差しで言葉の意味を問いかける。
「彼が言ったんです。『あの時、僕も紗枝も自分自身を信じることが出来たのなら、きっと別れなどしなかった』って」
 健志の顔を見つめている範子の瞳は、とても優しい。
 自分が選び進んで行く先に、必ず幸せがあると信じる勇気。自分を信じることが出来れば、決して諦めたりなどしないだろう。
「人の気持は真剣であればあるほど伝わってしまうものですからね……」
 範子の言葉に、健志は頷いた。
「今の彼は自分を信じてる。今度こそ彼女との未来を現実に出来ると思ったから、たとえ彼女が結婚していようとも、僕に会いに来たんでしょうね」
「そうね」
「彼女は……」
 健志は言葉をいったん止めて、言い直す。現実をちゃんと受け入れるために。
「妻は彼とちゃんと決着をつけるべきなのかもしれません」
「もう一度彼と逢うべきだと思っていらっしゃるの?」
「妻も同じ気持ちなら、そうすべきでしょうね」
「奥様に同じことをお伝えになりますの?」
「はい……。もしそれで僕らが別れることになっても仕方ないです」
 範子との会話の中で見つけた、健志の素直な結論だ。
「あなたはそれで本当にいいの?奥様のこと愛していらっしゃるのでしょう?」
「はい。愛しています」
 健志は星の見えない夜空を見上げた。たぶん紗枝を失ったら、自分に残るのは、何の星も見えないこの夜空と同じだと思う。
「愛していても、どうにもならないことだってありますよ」
 健志の全てを諦めてしまった力ない声に、範子は数秒の間を置き、目を細めて慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「おしどり夫婦にはなれませんでした」
 おしどりはいつも雌雄一緒にいると信じられている。仲睦まじい夫婦を例える言葉だ。
 どちらか一方を失った時、何も食べられなくなるくらい相手を想い続けるという。
「あなたは充分おしどりですわ。だって、今にも死にそうな顔していますもの」
「そうですね」
「あなたももう頑張るのはおやめなさい。そうすれば案外色んなことが見えてくるものですわ。幸せに続く道なんて一つじゃないもの。色んな未来があり、色んな幸せがあるわ」
「どうやって他の道なんて見つければ……」
 健志の言葉は途中で途切れた。
 範子は健志に口付けし、背に手を回す。健志は軽く身動ぎし抵抗を見せるが、範子に優しく抱かれ、その温かさに捕まってしまった。縋りつくように範子を抱き締めた時、張り詰めていた糸が切れたような気がした。

 人通りのない深夜のオフィス街には、彼らを冷やかす者も、邪魔する者もいない。
 健志は声を殺し泣いていた。
 紗枝と同じように心を押し殺してきた健志は、とめどなく流れる涙に戸惑いながらも、妙な安心感に心が温かくなる。

 まだ、自分にはこんなにも人を想う気持ちが残っていた。
 たとえ叶わない恋でも、こんなにも胸を締め付け、切なくなるくらい人を想える心が残っているのだと、涙が教えてくれていた。
 範子は、健志が泣き顔を見られたくないことを承知しているようで、涙が止まるまでの長い間、彼の懐で身を任せていた。

 どれくらい時間が経ってからだろう、健志の涙が乾いた頃、
「……あなたはもっと自由になれますわ。自分を信じて下さいね」と、範子は小さな声で囁き、健志の体をそっと放す。
 目を赤くした健志は、戸惑いながら範子を見つめた。
 範子は右手の人差し指で、フワリと健志の唇に一瞬触れて、その後、健志の左胸まで手を降ろし、指で拳銃の形を作る。
「奥様を愛しすぎているあなたの心に、少しだけ風穴を開けましたわ。あなたの奥様への気持ちを、少しだけ軽くするためのキスですわ」
 範子は健志の心に向けて拳銃を撃つ真似をし、ウインクする。

 目隠しを取り、他の道もあることを知るためのキス。
 愛し過ぎてしまう所為で、築ける未来をも壊してしまわないようにするために、心にほんの少しだけ入りこんだ優しいキス。
「あなたも私も、誰だって自由に飛び立てるわ。どんな場所からも、どんな人からも飛び立つことが出来るんだわ」
「……まるで詩人みたいなこと言いますね」
「そうかしら?」
 範子は軽やかに笑う。
「地上にいたら一つしか見えなかった道も、空から見渡したら、きっと色々な道がありますわ。わき道だってありますし、工事中の道だってあるでしょうし、獣道だってあるかもしれませんわよ」
「獣道は嫌だなぁ」
「あら?獣道が大きな国道につながっていることもありますわよ」
「それもアリかもしれませんね」
「もう一つ、良いことをお教えしますわ」
「良いこと?」
「おしどりのお話。あなた、ご存じないようですけれど、実際のおしどりは、つがいになった雌が卵を抱くようになると、雄はさっさと別居生活しますのよ。で、新しい雌が現れれば求愛しちゃうの」
 健志は言われたことを理解するのに数秒費やした後、目から鱗が落ちた。
 信じられた幻想と、実際の営みとのギャップ。
 なんともシビアで情緒もへったくれもない現実が、逆に今の健志には逞しく思え、大笑いしてしまう。
 範子も、健志の様子につられて笑い出す。笑いの相乗効果で止まらなくなる。
 笑いを抑えながら、健志が
「そこまでアッサリ生きられると、いっそ潔いですね」と言い、肩の力を抜いた。
「もう大丈夫ね?」
 範子は健志の頬に優しく手を触れる。そして、手を離すと勢い良く立ち上がり、クルリと健志の方へ向ける。

「私、明日大切なお仕事がありますの。あなたもお仕事ですね?」
「ええ」
「じゃあ、そろそろ帰りましょう」
 幻想的な時間が終わり、現実の時間がやってくる。
 健志も静かに腰を上げ、範子と向き合う。
「……ありがとうございました」
「私の方こそ感謝しております。ありがとうございました」
「そんな。僕は何も……」
「私もあなたのおかげで元気が出ました。私も飛び立たなければならないのです」
 少し顔を上げ、健志を見る範子の瞳は、電灯の明かりが僅かに反射して、淡い光りを放つ。
 健志は、何故だか範子の瞳の光りが今にも涙に変わりそうに思え、そのことに気が取られていて、彼女の言った言葉の意味にまで頭が回らないでいた。
「今夜、あなたのような人と出会えたこと、私は一生忘れないわ。私のことを知らない人に出会えなければ、こんなに素直に自分の気持ちと向き合えませんでしたもの」
 範子は独り言のように呟く。そして手を差し出した。
 それを見て、健志も自然と手を差し出しす。
 遠慮深げに差し出された健志の手を、範子はギュッと握る。
 ほんのひと時の、二人の出会いと別れを締めくくるには、握手が相応しいと言っているようで、健志もそれに応えた。
 手を放す瞬間、範子が言った。
「……明日、何処の局でもいいですから、芸能のニュースを見てみて下さい」
 これまでの会話とは何の脈絡もないことを言われ、健志は咄嗟に聞き返すことすら出来なかった。
 範子はそんな健志にはお構いなしに、
「お互いに頑張りましょうね!」と別れの言葉を言って、数歩後退り軽く手を振った後、健志に背を向け歩き出した。
 彼女は大通りでタクシーを拾い、一度も振り返らずに去って行った。
 健志はタクシーが見えなくなるまで見送った。
<芸能二ュースが彼女となんの関係があるのだろう?>
 健志は最後に範子が残していった言葉に首を傾げたが、あまり気に留めなかった。
 彼女と出会えた感謝の気持ちに浸りたかったからだ。
<もう会う事もないだろうな>
 不思議と寂しさ、また会いたいといった感情は湧いてこなかった。ほんのひと時だけ、ありのままの姿で向かい合った時間の共有者として、どこかで元気でいて欲しいと、ただそれだけを想う。

2004.3.2