告白

 午後10時47分。健志はホームでぼんやりと電車を待っていた。
 竹井健志、33歳。一般標準の枠から出ない身長と体重。顔つきに派手さや精悍さはないが、道を訊ねるなら彼にしようと思わせる、温和な雰囲気がある。
 スーツ姿の彼は、毎日仕事に追われるサラリーマン。始業午前9時、終業午後5時30分の規定だが、定時で帰ることが出来る日はほとんどない。
 今夜もこの時間まで仕事だった。忙しいだけの何の変哲もない一日が終わろうとしている。
<疲れたな……>
 健志は頭の中で呟き、ため息をついた。
 一つ年下の紗枝と結婚して5年になる。子供はまだなく、紗枝との二人暮らしだ。郊外にある2LDKのマンションに住み、決して高給ではないが日々困らないだけの給料をもらい、ありがたいことにボーナスもある。そこそこゆとりのある生活を送っていた。
 今夜も家に帰れば、いつものように紗枝に玄関で出迎えられて、食卓には夜食が待っているはずだった。
 紗枝は充分すぎるほど家事をこなし、気配りの出来る性格からか、ご近所様からも慕われていた。
 健志と紗枝は、はたから見れば幸せな夫婦だろう。
 当の健志もごく最近までは、自分はまずまずの幸せ者だろうと思ってきたが、このところ家路に向う足取りが重い。
 今夜は足だけでなく、気持ちまで重くなっていくのを感じていた。
<変だな……>
 家に帰って早く休みたいはずなのに、相反する気持ちが湧いてくる。
 次の瞬間、ホームに停車した電車に乗らずに見送っていた。
<馬鹿だな。次の電車まで10分も待つことになるのに、何やってんだ?>
 心の中で自分自身に文句を言いつつも、顔を出し始めた本心を誤魔化すことを止めにした。
 随分と前から家に帰りたくないと感じていたことを、自覚せざるを得なかった。紗枝の待つ家は、何時の頃からか健志にとって安らげる場所ではなくなっていたのだ。
 健志は踵を返し改札を出て、仕事を終えて足早に駅へと向うサラリーマン達の流れに逆らって、オフィス街へと戻って行った。

 午後11時を過ぎても、オフィスビルにはポツリポツリと明かりがついている。
<みんな働き者だなぁ>
 自分のことは棚上げして、苦笑いする。
 一際大きなビルのエントランスに噴水とベンチがあり、ちょっとした憩いの場所になっている。お昼休みなどはOLがお弁当を広げていたりするが、さすがに深夜は閑散としていた。
 視線を泳がせながら落ち着く場所を選んでいると、前から足早に歩いてきた女性と肩が軽くぶつかってしまう。
「すみません」
「申し訳ございません」
 健志も女性も同時に振り返り、同時に謝る。
 健志は視界に飛び込んできた女性の姿に目を奪われ、言葉を失う。
 ほっそりとした体に、淡いピンクのワンピースを纏った、桜の花のような可憐な女性だった。柔らかな視線を放つ瞳が、女性の印象を更に上品なものにしていた。見た目は三十歳前後だろう、まれに見る美人で、近寄りがたい威圧感まで感じてしまう。
 見惚れて何も言えないでいると、女性は健志の顔の前でヒラヒラと手を振る。
 健志はようやく我に返り、途端に慌てる。
 きっと呆けた顔になっていたに違いないと思い、照れながら頭を下げる。
「驚いてしまってボンヤリしていました。失礼いたしました」
 女性は健志とは対照的に、落ち着いた微笑みを見せる。
「こういうことには慣れておりますから、気になさらないで下さいね」
 確かにこれだけの美人なら、街中を歩いているだけでも、たくさんの人から注目されるだろう、と素直に思う。
「綺麗な方も大変ですね」
 口下手だなと自覚しながらも、他に気の利いた台詞を見つけられなかった。
 女性は一瞬戸惑い、まじまじと健志の顔を見て訊ねた。
「私が綺麗だから驚いただけですの?」
「え?」
 まるで、人を驚かせてしまう理由が、他にあるような口ぶりだ。
「あなたは私のことを、ご存じではないのですか?」
 女性の更なる問いかけに、健志は困惑する。
<もしかして、僕はこの人と面識があるのか?仕事関係?それともご近所様かな?>
 必死で記憶バンクに問いかけるけれど、女性の容姿に心当たりがない。
「すみません、以前どこかでお会いしたことありましたか?だとしたら申し訳ありません」
 健志は忘れてしまったことを詫びて、再度頭を下げた。
「そう……ですか」
 女性の方はどこか拍子抜けしたように答え、物珍しい眼差しで健志を見つめていた。
 何となく居たたまれなくなり、健志は、
「それでは失礼します」と言って、そそくさとその場を後にした。
 女性は健志の後姿をしばらく目で追っていた。

 健志は先ほどの場所からビルを挟んで反対側にあるベンチに座り、目の前の大通りを行き交う車を目で追っていた。
 数分の間頭を空っぽにした後、鞄から携帯を取り出して紗枝にメールを送る。
『同僚と飲んで帰ります。先に休んでください』
 携帯の画面に『送信しました』の表示が出ると、気の重い仕事を一つ片付けたような脱力感を覚える。
<これで少なくともあと数時間は心配はさせずにすむだろう>
 その場しのぎであることは、自分でもわかっていた。
 残業で遅くなる毎日で、滅多に飲みに行くことなどなく、たまに飲みに行ったとしても終電に間に合うように必ず家に帰っていた……今までは。
 でも今夜は家に帰る気になれるかどうか、健志自身にもよくわからない。
「さてと。何をしようかな」
 家に帰りたくなるまで、どこで何をしようかと思案するが、何もする気になれない。
 小さな溜息をついて、夜空を見上げる。空気の汚れの所為なのか、ビルの明かりの所為なのか、星はほとんど見えない重苦しいだけの空。夜風か健志の髪を軽く撫でていく。
 桜も咲き終え、夜でも暖かくなったこの季節、
「野宿も悪くないかもな」と半分冗談のつもりで呟いた。
「こんな所で野宿なさるんですか?」
 独り言に対し、横から質問が飛び出してきたことで、健志は心臓が飛び出るくらい驚き、即座に声の主を確かめる。
 ベンチの左脇に先ほどの女性が立っていた。
「あ、驚かせてしまったかしら? 申し訳ございません」
 女性の方でも健志の驚き様にビックリしたようで、口許に手を添えて、申し訳なさそうに謝罪する。
「あの……」
 健志は何かを言いたげに口を開くが、言葉が続かない。
<何でこの女性はここにいるんだ?>
 単純に出てきた発想は、尾行されたってことだ。尾行と言ってもほんの十数メートルだけのことだが、それでも意図的に後を着けられたら、少々身構えてしまう。
「あなたは私のこと、ご存じないのですよね?」
 女性は確認するように言った。
「はい」
 その答えに女性はとても嬉しそうに微笑み、ごく自然に健志の隣に腰を降ろす。あまりに当たり前って感じで座られたので、健志はなんのリアクションもとれなかった。
「あなたが野宿するとおっしゃるなら、私も仲間に加えていただこうかしら?」
「はぁ?」
 楽しそうに野宿参加の意思表示をする女性に、健志は目を白黒させる。
「私は河合範子と申します」
「あ、僕は竹井健志といいます」
 反射的に自己紹介をしてしまう。
「健志さんっておっしゃるのね。とてもいいお名前だわ」
 範子は軽く身を捩り、健志の顔を覗き込むように見る。
「今夜私のことを知らない方にお目にかかれるなんて、きっと神様からの贈り物ですわね」
 何やらますます楽しげな範子。健志はわけがわからないまま、範子のペースに巻き込まれていた。
「あら?」
 範子が健志の左手の薬指に目を留める。
 健志の指には、何の宝石も入っていないシンプルな結婚指輪がはめられている。範子のしなやかな指先が、ゆっくりと指輪に触れる。普通ならこんな無遠慮な行為は嫌悪感を持つのだが、何故だか範子だと許せてしまう。優雅な仕草や言葉使い、そして何より屈託のない微笑みが、卑猥さや慣れ慣れしさを微塵も感じさせないからだろう。
 範子は人差し指で、指輪をそっと撫でた。
「こんな所で野宿をしたら奥様が心配なさいますわよ」
 健志は苦笑いする。
「先ほど同僚と飲みに行くとメールを送りましたから、きっと先に寝てしまってますよ」
 言いながら心の中で否定する。
<紗枝は床に入っても、きっと僕を気にかけながら待っている……それが妻の務めだと信じて疑わないだろうから>
 健志は自嘲気味に、
「……いっそ、帰りたくないから野宿する、とでも送れば良かったかな」とポツリと洩らした。
 一瞬、紗枝との暮らしを壊すきっかけが欲しいと本気で思っていた。
「奥様と上手くいってらっしゃらないの?」
 範子に静かに尋ねられ、健志はハッとする。
「あ、いえ……そんなことないです! 変なこと言ってしまい申し訳ありません!」
 見ず知らずの人間に、非常にプライベートな悩みを語りそうになっている自分が恥ずかしくなり、しどろもどろになる。
 範子はちょっと呆れたように肩を竦めて笑う。
「あなたは謝り癖がおありのようですわね。もっと気楽に会話を楽しみましょうよ」
「はあ……」
 すっかり肩を落としてしまった健志に、範子は意外なことを言う。
「わかったわ! 竹井様が家に帰りたくないと思ってしまうのは、奥様を凄く凄く愛していらっしゃるからじゃないかしら?」
 健志は目を見開いた。
 普通、家に帰りたくないと言われれば、喧嘩をしたとか、居場所がないとか、マイナスイメージのことを言われると思っていただけに驚いたのだ。しかも、範子に言われたことは、紛れもなく図星だったから、驚きもひとしおだ。
「何でわかるんですか?」
「私は人の心が読めますのよ」
 小首を傾げ目を細め、悪戯っぽい眼差しを向ける。何もかも見透かしているような瞳に、健志はドギマギする。
「冗談ですよね?」
 思わず確認してしまうが、範子は微笑みを崩さずに笑っているだけだった。
 ベンチの後ろにある電灯が範子をぼんやりと照らす。健志は不思議な感覚に捕らわれる。この場所も、目の前にいる範子も、こうしている自分も、流れているはずの時間も、全ては幻なのではと感じてしまう。
 範子が作り出す雰囲気は非日常で、明日になれば消えてしまう幻想の世界なのだと思わせる。彼女の浮世離れした美しさが原因なのだろう。もしくは、健志の心が作り出している、弱さゆえの幻なのかもしれない。
<どちらでもかまわない……>
 健志は寂しげな笑みを浮かべ、不思議なひと時に甘えることにした。
 今ならずっと目を背けていた心の重石を外せるかもしれない。
 今ならずっと目を背けていた事実と向き合えるかもしれない。
 期待と不安を感じながら、重い口を開く。
「そうですよ。私は妻を愛しすぎてパンクしそうなんです。もう限界なんです」
「奥様があなたの気持ちに応えて下さらないの? 奥様に自分と同じだけの愛情を求めていらっしゃるの?」
「違う! そうじゃないんです!」
 健志は語気を荒げて否定した。どこか悲痛な叫びにも聞こえた。
「僕は彼女に幸せになって欲しいと思っているんです! ただそれだけなんです!!」
 感情が走り出したこの瞬間から、紗枝のことを『妻』ではなく『彼女』と呼んでいることに、健志は気がついていなかった。『妻』と『夫』と言う肩書きを無意識のうちに外しているようだ。
「……彼女は今幸せではないと思っていらっしゃるの?」
 健志は答えるのに抵抗を覚えるが、負けそうになる気持ちと必死に闘う。
「……少なくとも、今の彼女は幸福ではないでしょう。不幸ではないと思いますが、幸福でもない」
「どうしてそう思っていらっしゃるの?」
「彼女の心の中には掴み損ねた夢がある。掴み損ねた生活があるんです」
「掴み損ねた生活って何ですの?」
「僕と彼女は同じ会社の同僚でした。その頃の僕らは、とても気の合う仕事仲間って感じでしたが……」
「あなたは彼女のことを、女性として愛していらっしゃったのね」
 健志は小さく頷いた。
「彼女は僕を良き同僚、良き友人として慕ってくれました。僕もその関係を崩す気など、当初はありませんでした。一方的な片想いで、気持ちを伝えるなんてことも考えませんでした。彼女には付き合っている彼がいることを知っていましたし、とても幸せそうでしたから、邪魔などしたくなかったんです。二人の間では結婚の話も出ていたようで、順調に話が進んでいくと思って祝福していたのですが、ある日別れてしまったと聞かされました」
「理由はご存じでいらっしゃるの?」
「当時は知りませんでした。彼女は別れたこと以外何も言いませんでしたし、いつもと変わらない仕事ぶりでした。でも、以前のような幸せな笑顔は消えてしまいました。落ち込む姿を見せずに明るく振舞う彼女を、僕は傍で見続けてきました」
 痛々しそうに目を閉じ、当時を想い返す。そして、目を開け微笑む。
「それから一年ほど経って、僕はようやく覚悟を決めて気持ちを伝えたんです。結婚を前提に付き合って欲しいと、清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白しました。今まで生きてきて、あれほど勇気がいったことはありません」
「そう……。彼女は気持ちを受け入れて下さったのね?」
「はい。以前の彼との別れの原因を知ったのも、僕が彼女に告白した時でした」
 健志の告白に答える前に、紗枝は彼との過去のことを吐露した。
 この時紗枝は初めて涙を見せた。
 そして、今日まで健志と共に過ごしてきた時間の中で、紗枝が感情の激しいうねりを見せたのも、この日が最初で最後だった。

2004.2.28