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最後のキス

 ちょっとだけ豪華な夕食とワインを用意する。和食にワインってのも絵になるわよね。一人暮らしのアパートでの、たった一人でのお祝いのディナー。
 私は明日結婚する。
 父は私が乳飲み子の時に亡くなり、母はまだ小学生にもなっていなかった私を置いて、どっかの男といなくなった。私を育ててくれてた父方の祖父母も、私が就職して、すぐ他界している。
 一生天涯孤独だと思っていた私にも、明日家族が出来る。
 いや、天涯孤独って言うのは違うかな。私には物心ついた時から口喧しいお目付け役がいた。たった一人でのディナーってのも違うわね。独身最後の夜を一緒に祝ってくれる存在がちゃんといる。

 小さな一人用のテーブルに載っているのは一人分の食事と、二人分のワイングラス。グラスに赤ワインを注ぎ、真正面に置いた。そして、置いたグラスに、自分の手に持ったグラスをあてて音を出し、乾杯。
「あなたにはホントにお世話になったわ」
「俺はホントにお世話したよな」
 あなたは苦笑いする。私はちょっとだけ意地悪な笑みをして、目を細める。
「私と離れるのが寂しくなったんじゃないの?」
「冗談じゃねーよ。ようやくお前と決別できるんだ。清々して嬉し涙が出そうだっての!」
「強がり言っちゃって!」
「馬鹿言うな!強がってなんてないぞ!!」
 顔を真っ赤にしてムキになってるあなたを見て、とても幸せで温かい気持ちになる。
 桜の蕾が膨らみ始める3月下旬。あなたと出会ったのもこの季節ね。
 ちょっとだらしなく着たスーツに、春もののコートを着たあなた。窓の外に目を向けているあなたに、心の中で問いかける。
 ねえ、あなたわかっているの?私がどれくらいあなたに感謝しているか。私がどれくらいあなたを愛しく思っているか。知らないでしょう。
「しっかしなぁ。あの泣き虫なくせに気が強いお前が嫁に行く日が来るとはなぁ。世の中物好きがいたもんだ」
「なによ。あなただってホントはいい男だって思っているクセに」
「ああ。あいつは将来大物になるぞ。なんてったって、お前と結婚したいって言うくらいなんだから、怖いもの知らずの器のでっかい男だ。出世間違いなし!」
「もう!もっとましなお祝いの言葉は出てこないの?」
 私がむくれると、あなたはちょっとだけ目を逸らし、髪を軽くかき上げポツリと言う。
「大丈夫。お前とあいつならきっと幸せに生きていける。俺が保証する」
 褒める時や真面目な場面でも、いつもどこか茶化していたあなたが、とても静かに言った。その分じんわりと言葉が心にしみこんで、涙腺が緩んでくる。私は涙を吹っ切るように明るい声を出す。
「私の料理の腕もなかなかでしょう!今日の料理見てよ!」
「当たり前だ!誰が教えてやったと思ってるんだ!」
「はいはい。感謝してますよ」
 そうよ。今日のメニューである、お赤飯も、天ぷらも、かぶの煮物も全部あなたが教えてくれた。

 私を育ててくれた祖父母からは、家庭的な温かさと言うものを感じ取れなかった。金銭的には不自由のない生活を与えてくれたが、それも世間体だけが気になってのことで、私に愛情などありはせず、興味すらなかったように思う。
 小さな頃から家事全般は私の仕事。祖母は満足に料理の仕方を教えてくれない割には味には煩く、美味しいと言って貰えたことなど一度もない。ただ、不味いと怒鳴られることも少なかった。なぜかと言うと、私にはプロの料理人の先生がいたからだ。
「俺は有名な和食屋で働いてたんだぜ。その俺に料理を習えるんだ、ありがたく思えよ!」
 そう言ってあなたは包丁の使い方も知らなかった幼い私に、手取り足取り料理を教えてくれた。
 あなたが私に教えてくれたのは、料理だけじゃない。勉強はあまり得意ではなかったらしいが、私と一緒に英語や数学の問題に頭を抱えてくれた。友達との喧嘩や恋愛ごとにも相談に乗ってくれた。時には鬱陶しく感じられるほど守られてきた。両親からも祖父母からも与えられなかった愛情の全てを、あなたから注いでもらっていた。

 ワイングラスを持つ手に僅かに力が入る。勇気を出す時は力んでしまうもんだ。
「……ねえ。本当に明日でいなくなっちゃうの?もう私の傍にいてはくれないの?」
 あなたはチラッと私を見て、呆れたように笑う。
「あのなぁ。いい加減に俺を解放してくれよ。もう20年だぞ。そんなに俺を困らせたいのか?」
「困らせたくなんてない!けど……」
「明日幸せになろうって奴がそんなしみったれた顔すんな!ちゃんと式が終わるまで見届けてやっから。ほれ、早く飯食べろ。冷めるぞ」
 しみったれた話を切り上げようとするあなた。でも、ここで終わらせるわけにはいかない。
 明日結婚式が終わったら、本当にあなたは私の許からいなくなるだろう。今夜ちゃんと言わなきゃ一生後悔する。
「ねえ、私あなたに謝らなきゃいけない」
 私の声、とても固い。自分でも顔と同様に声まで強張っているのがわかる。
 あなたは一瞬怒ったような顔になり、その後困惑した顔に変わり、最後には疲れたようにため息をつく。
「謝るな」
「でも私たち、ずっと事実を話し合わずにきた。最後なんだもの、目を逸らさずに謝りたいの」
「お前は何も謝るようなことはしていない」
「けれどあなたは私を憎んでいたはず。少なくとも最初は私に復讐するつもりで傍にいたんでしょ?」
 あなたはハッとしたように目を見開く。そして悲しそうに目を伏せ、力なく微笑む。
「そこまでバレてたのか……」
「当然」

 ちゃんと事実を理解したのは小学生になってからだけどね。でも、幼い頃から何となくわかっていたような気もする。
 私を見るあなたの眼差しは、遠い昔はもっと鋭かったが、その眼差しが優しげなものになるのに、そう時間がかからなかった。
「俺とお前の関係に、お前が気が付いてたのは知ってたよ。当時の記憶が無くても、情報ってのはいたるところから入ってくるからな。けれど、お前は俺に何も聞かなかった。だから、俺も何も言わなかった」
「言えなかったのよ。言ったら、あなたがいなくなってしまうんじゃないかって思って、言えなかったの」
 あなたは私に名前すら明かしてくれていないけど、私はあなたの名前も歳も職業も知っている。何度も名前を呼ぼうとした。けど、言えなかった。私が『ねえ』って呼ぶと、あなたは傍で答えてくれていた。それで事足りてしまっていたことに甘えて、名前を呼ぶことを避けていた。名前を呼べば、その先にある事実に辿り着いてしまうから。
 私は前髪を右手でかき上げる。額に今も僅かに残る傷口。
「私ね……あの時、必死だったの」
「知ってる」
「お母さんに置いていかれない様にって、必死で走っていたの」
 声が震える。あの日の辛い気持ちが蘇ってくる。あなたは全てをわかっているって風に、俯き加減で黙って聞いている。私は呼吸を整え、ゆっくりと言葉を綴る。
「もともとは母は子供なんて欲しくはなかったのよね。母を嫌っていた祖父母から聞かされたわ。父と母が結婚したのは私が出来たからだって。母は堕ろそうとしたらしいけれど、父がどうしても子供が欲しいと説得した。祖父母も、私が出来たから仕方なく結婚を認めたんですって。父が亡くなり、別の男性に母が恋するようになってからは、私は母の重荷でしかなくなった。私も小さいながらも疎まれていることを感じていた。それでも……だからこそ必死になって母のあとを追っていた。母は私を連れて歩く時、手をつないでくれたことなんてなかった。いつも早足だった。まるで私を忘れ物にでもしたいのかと思うくらい早足で、子供だった私は走ってないとすぐに見失ってしまった」
 あなたと出会った日、私は4歳だった。全ての記憶が残っているわけではない。母や祖父母から聞かされた情報からも記憶に刷り込まれているので、後から形作られた部分もあるだろう。それでも断片的にだけど、鮮明に残っている情景が脳裏を駆け巡る。

 昼下がりの大通り。散歩や買い物をする人々。買い物を終え、スーパーのビニール袋を抱えた母の後姿。それを追う私。歩道橋に差し掛かり、母が階段を登る。私も必死に駆け上がる。ようやく階段を上がりきると、母はもう十数メートル先にある対面の階段に消えて行くところだった。私は走って後を追った。早く追いつかなきゃって心臓をドキドキさせながら走った。やっと階段へ辿り着いた時には母の姿はなかった。不安と恐怖に襲われながらも階段を降りようとした時、足がもつれて前のめりで転んでしまった。地面と空とが一転し、私は転がり落ちて行った。

 気が付いた時、私は病院のベッドの上だった……。
「俺も運が悪いよな〜」
 あなたは自分の運を笑い飛ばす。運が悪いと言うわりに、表情は穏やかなのね。
 私が階段から落ちた時、あなたはたまたまそこに居合わせた。階段半ばにいたあなたは、落ちてくる私を抱き止めるが、バランスを崩して一緒に転がり落ちてしまう。あなた私を庇うように衝撃を受け止めてくれた。私たちは結局階段の最後の一段まで転がり落ちて、私は額を切っただけの怪我で済み、あなたは命を落とした。
 目覚めたばかりの私に、母は怒鳴った。私の所為で人が一人死んだとか、責任がどうのこうのとか……。4歳児の私は意味がわからず、ただ謝っていた。そして、ひとしきり泣きじゃくった後、あなたが私の傍にいて、驚いたように母を見ていたことに気がついた。あの日から、あなたはずっと私の傍にいてくれた。

「ねえ、お願い。聞かせてよ、あなたの気持ちを。どうして私を助けてくれたの?どうして私の傍にいてくれたの?」
 あなたは困ったように笑い、右手人差し指で頬をぽりぽり掻いた。
「正直言って、俺にもよくわからないんだ」
 あなたは一生懸命言葉を探しながら、言う。私を傷つけないように気を遣いながら……。
「俺は咄嗟の行動でお前を助けた形になったけど、自分の死を納得なんて出来なかった。お前が生きていて、俺は死んだ。誰が悪いってわけじゃない。俺が勝手にお前を助けた上での結果だ。それでも、自分の死を受け入れられず、やり場のない怒りの矛先をお前に向け、幽霊としてこの世に残ってしまった。お前の傍に行き、お前を呪ってやろうと思ったんだ」
「そのわりに、一度もそんな素振りを見せたことないじゃない」
 唯一、あなたの恨みを感じさせる鋭い視線もあったが、ほんの短い間だけだったように思う。
「お前に取り憑いて、いきなり愕然とすることがあった。それが病室でのお前の母親の怒鳴り声だった。ああいう場合、まずは優しく子供を抱き締めてやるっていうのが俺の母親像だったわけで……」
 あなたは腕組みをして、自分の言っていることに自分で頷く。
「で、俺が復讐なんてことをじっくり考える以前に、お前が過酷な状況で生きてるってのを、お前の傍で見せ付けられてだな……何ていうか、いつの間にか放って置けなくなったっていうか……」
 あなたをこの世に引き止めさせていたのは、最初は私への恨みからだったようだが、途中から私の行く末が心配で心配で仕方ないってものに変化したらしい。
 あなたは私に恨みごと一つ零したことがない。事故のことなど一切言わずに、正体すら明かさずに傍にいてくれた。
 私の所為で命を落としたのに、私を支え続けてくれた。私にしか見えない幽霊。
 あなたにとって私って何だったのだろう?とても知りたいけれど、聞かないでおいてあげるね。きっとあなた自身も答えに困るだろうから。だからこそ、あなたは何も言わずに、正体不明の幽霊でいたかったのよね……。私も、何も言われなかったからこそ心を開けた。だからこそ、お互い正体をわかっていた上で、知らない振りをし続けた。

「ごめんね。そして、ありがとう」
 事故から20年が経ち、やっと言えたお詫びと感謝の気持ち。
「たぶん私はあなたがいなければ、生きてこられなかった。あなたは私の命の恩人だわ」
「はいはい」
 あなたは『命の恩人』の意味を、単に転んだ私を助けたことのみを言っていると思ってるわね。あのね、違うのよ。
 私がここまで屈折せずに生きてこられたのはあなたのおかげ。自分を消さずに生きてこられたのも、素直に嬉しいことは嬉しいと感じ、悲しいことは悲しいと受け止められるようになったのも、一緒に笑ってくれて泣いてくれたあなたがいたからなのよ。そして、人を愛することを止めないで来られたのも、全部全部あなたのおかげ。ねえ、わかってるの?
 あなたは20年前と変わらない姿で私に笑いかけてくれる。

 飯田俊和。当時29歳。小さなホテルに入っている日本料理屋で調理長をしていた。独身でご両親もすでに亡くなっていたこと、事故当日は仕事が休みで、友人に会いに行く途中だったこと。これが母や祖父母、ご近所が教えてくれたあなたの情報。この世での肩書きは、それ以上のことを知らない。けれど、私はあなたのことをとても良く知っている。

 その後の夕食は他愛のない会話に終始し、最後の夜は更けて行った。

 布団に潜り込み、睡魔を感じながら呼びかけた。
「ねえ」
 薄暗い部屋に響く私の声。
 あなたは私が年頃になってからは、プライバシーってのを気にして夜寝る時やお風呂の時等は離れてどっかで浮遊しているらしい。が、呼べばすぐに傍に来てくれる。
「何だ?」
 ほらね。
「一つお願いがあるの。言ったら叶えてくれる?」
「ものによる」
「あなたにしか出来ないことよ」
「とりあえず言ってみな。それから考える」
「……キスして」
 あなたは少し驚いたような顔をする。それから照れ隠しに怒ったような顔になり、この雰囲気を冗談に替えてしまうような言葉を言おうと口を開くが、そうは問屋が卸さない。
「叶えてくれたら、取って置きの秘密を教えてあげるわ」
 ちょっと甘えるように可愛く色っぽく囁いてみる。そして、最後に全ての気持ちを込めて言う。
「最後のお願いだから……キスして」
 しばしの沈黙の後、観念したらしい。ゆっくりとあなたの顔が近づいてくる。私はそっと目を閉じた。
 触れ合うことは出来なかったけれど、誰よりも傍にいてくれて、誰よりも温かかったあなた。事故直後、私は気を失っていたはずなのに、私を包み込むように抱き締め、守ってくれたあなたの温かさをハッキリと感じることが出来る。
 あなたの唇が、私の唇にそっと触れる。ほんの一瞬だった。目を閉じてたけど、ちゃんとわかったわ。
 私にとって、あなたは家族?
 親友?
 恋人?
 どれも当てはまらないような気もするし、全てを足しても足りないくらいだとも思う。
 あなたもきっと同じような気持ちなんじゃないかな。
 正体不明の気持ちを抱えたまま同士の、不思議なキス。
 家族愛、友情、男女の恋愛感情、やっぱりどれにも当てはまらないのに、ただただ愛しくて切なくて涙が出そうになる。
 明日私は新たな家族を作るため結婚する。あなたはやっと全ての気がかりから解放されて、自由な身になる……。
 お互い幸せになる第一歩を踏出すのに、泣いてどうするの!
 私は布団を被り、ぶっきら棒に、
「ありがと!おやすみ!」って言った。
 あなたも同じように、
「おう!おやすみ!」って答えたが、すぐに慌てたように言う。
「おい!秘密って何だったんだ?約束だろ、教えろよ!」
 ちぇっ!覚えていたか。

「俊和。私の初恋はあなただったのよ。知らなかったでしょう」
 最後の夜、私は初めてあなたの名前を呼べた。

2004.2.11 END