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居酒屋たぬき
一人目の客


一杯飲み屋の『居酒屋たぬき』
小さな小さな居酒屋で、席はカウンターのみ。8人程度しか座れない。
店内も小汚くて訪れたお客は肩を寄せ合って酒を飲む。

店を切り盛りしているのは60歳半ばの『伊予さん』という優しい笑顔を持つ女性だ・・・
着物と割烹着を着てお客の相手をする。

この小さな飲み屋に疲れた人達が羽を休めに来る。
そんな安らぎを与えてくれる居酒屋たぬき。

ただ・・・不思議なことに・・・・この店には常連客が1人もいない。








PM11:00過ぎ
一人のくたびれた中年男が店を訪れた。

「まだ飲めるかい?」
店の中にお客がいないことを確認し遠慮がちに言った。

伊予さんはにこやかに「大丈夫ですよ」と言い席に案内する代わりに自分の真ん前の席に
おしぼりを置いた。

男はその席に座り
「10000円分飲ませてくれ・・・」と小さな声で言った。

伊予さんは笑いながら言った。
「うちで10000円分飲み食いするのは大変なことですよ!・・・なにせどの品も安いからね」

男は軽く肩をすくめ
「だったら女将さんも一緒に飲もうよ・・・」・・・と言った。



伊予さんはとりあえず枝豆と冷奴を出し、よく冷えたグラスを2つ用意し
ビールを注いだ。

「じゃあお言葉に甘えちゃいましょうかね」
クスッと笑って男と乾杯し一気に飲み干した。

伊予さんは男のグラスにビールを注ぎながらやわらなか声で言った。

「何かあったんですか?」

男はため息混じりに言った。
「会社をリストラされて・・・女房にも逃げられた・・・再就職先もなかなか見つからない・・・
悪いことだらけさ・・・・」

「まあまあ・・・・」
伊予さんは金目の煮つけを皿に盛り男の前に差し出す。


男は2杯目のビールも一気に飲み呟いた。
「俺には良いことなんて1つもない。これから先真っ暗闇さ・・・・・・・・・」
「そんな弱気なことを言わないで・・・ね?」

男はクスッと笑って言った。
「金だってここで飲む10000円が最後なんだよ?・・・もうヤケさ・・・やってられないよ・・・
こんな人生・・・」


伊予さんは男の話を静かに聞いていた・・・全てを聞き終わり、言った。

「勝負しませんか?」
「勝負?」
男は首をかしげた。





伊予さんは楽しそうに話を続けた。
レジから10円玉を取り出し言った。

「表と裏と・・・どちらが出るかを当てる勝負。もしあなたが勝てば今日の飲み代は私のおごり。
私が勝てばお店のお掃除を手伝ってもらう・・・・どうですか?」

「・・・いいでしょう。やりましょうか」
男は相変わらず元気のない微笑を浮かべ了承した。


「じゃあ俺は表」
「では私は裏ですね」


伊予さんの指が上手に10円玉を弾き宙に舞い上がる。

伊予さんの手の甲に10円玉が落ち・・・いったん手で覆い隠す。
男は見を乗り出し伊予さんの手を見つめる。


「じゃあ・・・開けますよ?」
伊予さんがそおっと10円玉を覆っていた手をどける。


そこから姿をあらわしたのは表。







伊予さんは残念そうに笑いながら「あらまあ・・私の負けね」と言った。

男は嬉しそうに笑っていた。
「まだまだ俺も運命に見捨てられてはいないのかな」




その後一時間ほど酒を飲み男は店を後にした。
男の心はなんとなく・・・・温かくなっていた。






半年後・・・・男は再就職先も見つかり頑張って働いていた。

思えばあの日居酒屋で飲んで・・・もう一度頑張ってみようという気持ちになれたような気がしていた。

男はもう一度女将さんと話をしたいと思い記憶をたどって店を探した。

あの日初めて足を踏み入れた居酒屋だった。


記憶の場所が近づき心が躍る。

だが・・・記憶の場所に居酒屋はなかった。

周りを探してみてもあの日見た『居酒屋たぬき』の暖簾を掲げている店は見つからなかった。

男は狸にでもばかされたのか?・・・と不思議がった。


『居酒屋たぬき』・・・あなたはご存知ですか?
2001.7.8