悟と春香は授業開始のチャイムが鳴ったことにしばらくの間気が付かず、結局サボってしまった。 広い校庭の隅にちょっとした芝生のスペースがあり、そこには木で出来た古いベンチが1つだけあった。 今、悟と春香はそこに座っている。2人の距離は40cmほどあいている。…要するにベンチの端と端 に座っているわけで…。春香の警戒心を物語っているようだった。 クロはといえば、『2人の距離』のスペースにちょこんと座っている。 「ごめんなさい…。」 春香は小さな声で詫びた。 「別にいいよ。ビックリしたけどな。」 悟はあっけらかんと笑ってちょっと曇った空を見上げた。 <雨、降りそうだな…> その後、目線を真正面に移す。。 <晴れてれば、もっと見応えある景色だろうな> 悟たちの学校は街の高台にあり、この場所からフェンス越しに街並みを見渡せる。 <こんな場所があるなんて知らなかったなぁ> この場所は校庭からは木や茂みで隠れてて、そこを抜けないと辿り着けない。 死角になっているわけだ。 春香に連れてこられて初めてこの場所の存在を知った。 そよそよと少し湿気を含んだ風が2人の頬を撫でる。 春香はやっと落ち着きを取り戻したようで俯きながら尚也のことを口にする。 「川田先輩、みんなからは恐い人だって思われているけれど、本当はとても優しい。」 春香はそう言った後、口惜しそうに表情を歪める。 「なのにみんな彼を誤解してる。」 「中山。」 「彼に対して酷いことばかり言う。それが許せなくて頭にきてて…あなたに八つ当たりしてしまった。」 「もういいってば。俺だってみんなと同じこと考えてたわけだし。」 その後、ニコッと笑って自己紹介をしようと口を開く。 「俺の名前まだ言ってなかったよな、俺は…。」 「笹山悟…君。」 言う前に当てられてしまった。 悟が<何で知ってんだ?>って顔をしていると、春香は無表情で答えた。 「昨日、あの男達がそう言ってたから。」 「あ、そっか。ちっ。あいつらホント失礼な奴らだったよな。」 『遅刻の数と振られた数校内ナンバーワンの笹山悟!』…と、昨日言われたことを思い出し、 少々腹を立てる。 春香はそんな悟をかまうことなく目の前に広がる街の風景を見つめていた。 会話が途切れたので、悟は以前見たことのある尚也の風貌を思い出しながら頭に描く。 精悍な顔立ちと引き締まった身体つき。背も高く、男らしい逞しさを感じさせられる、川田尚也は そんな男だった。 自分と比べるとちょっと落ち込んでしまう悟だった。それほど男前なのだ。 尚也の鋭い眼光に睨まれた日には、体が凍り付いてしまうという噂だ。 『優しい』というイメージにはほど遠い。 「なぁ、お前と川田尚也って本当に友達なのか?」 悟は今でも半信半疑なのだ。 春香が<何が悪いの?>っと言いたげな、ちょっと不満そうな目を悟に向ける。 悟は慌てて言葉を続ける。 「あ、いや、怒るなよ。だってよ、みんなが恐れる喧嘩の達人の川田と、大人しそうなお前とじゃ どこに友達になる接点があったんだろうって不思議に思うのは当然だろうが。」 だろ?って同意を求めるような眼差しで春香を見つめる 隣のクロも春香を見つめ、耳を立てている。 春香は、悪気なんて一欠けらも見当たらない悟の開けっ広げな態度を見て、肩の力を抜いた。 小さく深呼吸した後、話を始めた。 「この場所ね、私が唯一安らげる場所なの。」 「へ?」 <なんだそりゃ> と、思ったが、そのことについて突っ込むことが出来なかった。 何故ならば、春香の表情が今までの暗さと打って変わって柔らかで穏やかだったからだ。 笑顔ではないものの、思わず見惚れてしまった。 「川田先輩にとってもここはそんな場所だったみたい。だから私は本当の彼を知ることが出来た。」 そこまで言って、表情が曇り言葉を詰まらせる。 「…あのね、彼と友達って言ったのは私の一方的な想い。彼は私のことなんて友達とも何とも 思っていないと思う。」 春香はゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐに風景ではない何かを見つめていた。 春香が見つめているものは、彼女の心にある真実。 「川田先輩、もう一週間以上学校にきていない。みんな彼はどっかで遊び歩いているだけだって 言うけれど、絶対違う。彼の身に何かあったのよ。」 真剣な眼差しで想いを口にする。 学校に姿を現さない尚也。来たくても来れない理由があると春香は思っている。 「中山。お前、何で自信満々にそう思うんだ?」 悟は春香の横顔を見上げた。 彼女の前髪が風になびく。 「彼は授業に出なくても、学校を休んだ日でも、お昼休みや放課後この場所にだけは来ていたわ。 雨が降った日だって顔を出していた。」 「何だって?」 <どういうこったいそりゃ> 悟は首を傾げた。 「川田先輩は私の居場所を守ってくれていた。」 「…おい。」 悟は目を見開き思わず立ち上がる。 春香の瞳から涙が零れる。 <また泣いちまったよー!!> 悟は涙にビビっていたが、その後春香が掠れる様な声で言った言葉に気持ちを奪われた。 「彼は私に言ったの。『俺がいつもここにいるから安心しろ』って。」 尚也の言った言葉は春香にとって何よりも信じている『約束』だった。 「中山…。」 <お前にとってこの場所はどれくらい重いものなんだ?> <お前のとって川田尚也は本当に友達という存在なのか?> <川田尚也は一体お前の何を守っていたんだ?> 心の中に湧くたくさんの疑問。 でも、それを聞くことより、真っ先に悟の口から出た言葉は…。 「中山、頼むよ。泣かないでくれ。泣かれると何だかすげー困る。」 「笹山君?」 とても困惑した様子の悟の姿に、春香は涙で潤んだ目のままキョトンとする。 「お前の言ってること、信じるから。だから泣くな。」 春香は目を見開いた。驚きや戸惑い、不安感…春香の心を色んな感情が駆け巡る。 <私、何でこのこと笹山君に話したんだろうか?何でこの場所に連れて来たの?> 誰にも話したことのない話。 誰にも教えてあげたことのない場所。 春香の大切な気持ち。 「お前が何か困ってんなら俺、協力すっからさ。だから泣くな。」 悟の言葉は全て直球。飾りもなければ工夫もない。 そんな悟の言葉に、心の底から突き動かされ春香は何かを言おうとして口を開く。 でも、何を言おうとしたのか、何を求めようとしたのか形になる前に恐怖と拒絶が春香の心を 凍らせる。 ちょうどその時、授業終了のチャイムが鳴る…。 春香は出かかった言葉を飲み込み、悟から目を逸らす。 手の甲で涙を拭う。 「…教室戻りましょう。」 それだけ言って、春香は茂みを抜けて校舎へと歩き出した。 後に残された悟とクロ。 1人と1匹は、同じような目で春香の後ろ姿を見つめ続け、彼女が去った後もしばらく視線を 動かせずにいた。 まるでご主人様に『お留守番』を言い渡され、寂しさで泣きそうな座敷犬の瞳。 「…何なんだよ、この気持ち!」 悟は今まで感じたことのない苛立ちと胸の痛みを感じた。 投げかけた気持ちに対し何の答えももらえず、拒絶された。 いつもなら「けっ!感じ悪い奴!」の一言で後は忘れてしまうのだが…。 今まで物事に対しとても単純明快に自分の気持ちと向き合ってきた悟。 でも今回ばっかりは自分で自分の気持ちを掴みかねていた。 「あーちくしょう!そっちがその気なら、俺は俺で川田尚也のこと調べてやる!」 とにかく、イライラする原因のキーワードは『クロ』『中山春香』そして『川田尚也』この3つだ! …と悟は思う。 「スッキリ爽快になるには川田尚也に会うのが一番近道だぜ!」 何の根拠もないが、悟はそう結論を出した。 <さっそく住所調べて川田の家に行ってみよう!> 目標が定まると満足そうにニッコリと笑い、元気に校舎へと歩き出した。 クロもピョコンとベンチから降りて、悟の心を映すように尻尾を元気にピンっと立てて後を 付いて行った。 |
2002.5.12 ⇒
今、このお話にすごく燃えています! |